著書「置かれた場所で咲きなさい」で知られ、昨年末に亡くなった渡辺和子さんが、2.26事件で殺害された渡辺錠太郎教育総監の娘であったこと、青年将校の遺族を赦すのに長い時間を要したことを先月のブログで書いた。

 

 

渡辺さんが理事長を務めたノートルダム清心学園(岡山)の学園葬が今月12日に営まれた。そこに91歳の男性が参列していた。

渡辺邸を襲撃した安田優(ゆたか)少尉の弟、善三郎さんだ。

2.26事件に苦しんだのは被害者家族ばかりではない。

加害者側にも痛切な歩みがあった。

80年経っても、善三郎さんが事件のことを思わない日はない。

 

 

 

2.26事件を報じる新聞
 

 

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安田少尉は熊本・天草の貧しい農家に生まれた。人口3000人ほどの小さな村だ。10人いた子供たちに高等教育を受けさせようと、父母はわずかな田を耕し懸命に働いた。自分たちは襤褸を着ても厭わなかったという。子供たちはその思いに応え、長男は京都帝国大学に、次男の優は士官学校に進んだ。当時、超難関だった士官学校に村から進学したのは初めてのことだった。優はとても親孝行で、父母にとっては特に「自慢の息子」だった。

 

 

13歳年下の弟、善三郎さんにとっては、名前の通り優しい兄だった。夏休みに家に帰ってくると、弟を連れ出して川でウナギを獲ったり、一緒に馬に乗ったりして遊んでくれた。

 

 

しかし、1936年2月29日の新聞が家族を奈落に突き落とす。2.26事件を報じる記事の中に優の名前があったのだ。母親は半狂乱のようになったという。上京した父から電報が届いたのは月12日。「優、慫慂として死す」。この日朝、安田少尉は銃殺刑に処せられた。24歳だった。

 

 

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青年将校たちは処刑の前に最後の言葉を残して死んでいったが、どの将校も言わなかったことを優は言った。「特権階級者の反省と自重を願う」。優が「昭和維新」を志した本意はこれだったのだろう。

 

 

長兄は京都で左翼運動を行い1930年に逮捕されている。左右は違うが、兄弟の心には天草の故郷の貧しい情景があったに違いない。都会の富裕層と比べるにつけ、社会の不条理に義憤を感じていたのであろう。

 

 

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2.26事件の後、安田家は孤立する。「教育したってなにもならない。兄は左翼で弟は殺人者だ」と後ろ指をさされた。優の葬儀は処刑から3か月後。月夜の晩にひっそりと営まれた。葬儀には特高が来ていたという。親戚からは縁切りを求められた。善三郎さんは学校で教師にいじめられ、けんかをすれば「お前の兄は死刑じゃないか」と罵られた。

 

 

善三郎さんはその後、優と同様に士官学校に入り半年後に終戦を迎える。戦後は東京で暮らしたが、「殺人者の弟」として、後ろめたい気持ちが消えることはなかった。

 

 

転機となったのは198612日、処刑から50年の日の法要だった。

渡辺和子さんが招待され、将校たちの墓前に香を捧げ合掌した。

自分の父を殺めた者に祈りを捧げる、こんなことがあっていいものかと善三郎さんは感極まり号泣した。善三郎さんは、渡辺家の墓所を聞き、それから毎年、多摩墓地へのお参りを欠かさない。

 

 

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善三郎さんが兄を亡くしたのは10歳、

渡辺さんが父を亡くしたのは9歳の時だった。

ほぼ同世代の二人は、同じ事件に起因する苦しみを抱えて激動の時代を生きてきた。

 

 

交流は30年続いた。善三郎さんは年下の渡辺さんのことを「先生」と呼ぶ。

渡辺さんと会えば、自然と穏やかな気持になった。

夫婦でよく岡山を訪問し、渡辺さんを神奈川の自宅に招くこともあった。

事件のことは話したことがない。話せば苦しいことを、お互いが一番よく知っていたからだろう。

 

 

「渡辺先生と出会えたのは、私の人生でも最大の喜びでした」という善三郎さんは、聖書を読むようになり、1991年に受洗した。天草出身の善三郎さんにとって、キリスト教は遠いものではなかっただろう。だが、入信を決意させたのは、渡辺さんの「赦し」だった。受洗した善三郎さんに、渡辺さんはロザリオを贈ったという。

 

 

生前、渡辺さんは「私の父を殺した人は私の敵ではなかった」と話していた。本当は分かり合える人たちが殺し合う時代が再び来ないことを祈るばかりだ。