※『ハムレット』の訳文は私訳、『じゃじゃ馬ならし』の訳は第17回明治大学シェイクスピアプロジェクトからの引用による。

 

 キリスト教の死生観、要約すると世界が崩壊したときに、キリストが再臨し、人間たちはすべて裁判にかけられ、そこで救われるものには永遠の命を与えられ、救われないものは地獄の業火で永遠に焼かれるというもの。いわゆる「最後の審判」というやつですね。カトリック、プロテスタント、正教会で細かな違いはありますが、取り敢えず大体がこのようなものと考えていいでしょう。

 

 救われるために何が必要かと言えば懺悔(現在は「ゆるしの秘跡」と呼ばれているらしい)です。生前、神の前で自らの罪を告白し、悔い改めることで、神から赦しと和解を得ることができます。逆に言えば、懺悔をしていなければ、地獄に落ちてしまうということになります。

 

 よくよく思い返してみれば、この死生観というものは、『ハムレット』には随所で反映されていたかなと思います。

 

第一幕第四場にて亡霊に次のようなセリフがあります。

 

亡霊 私はお前の父の亡霊、

 夜は定められた時まで闇をさまよい歩くのが運命(さだめ)。

 昼は業火に焼かれて贖罪し、

 罪という名の生前の穢れが

 清められるのを待つ身。

 我が牢獄の秘密を明かすことは禁じられている。

 たった一言でもお前の耳に入れてしまったら、

 魂は震えあがり、若き血潮は凍てつき、

 両目は流星の如く眼窩を飛び出し、宙を舞い、

 その束ねた髪も解き乱れ、

 猛り狂うヤマアラシの如く逆立つことだろう。

 だが、この永遠なる牢獄を生者に明かしてはならぬ。

 

亡霊 そうだ、あの近親相姦の、あの不純な獣は、

 知恵という魔術、裏切りの才をもって――

 ああ、邪悪な知恵と才能は

 なんと誘惑の力を持つことか!――奴は、己の恥ずべき情欲の手中に収めたのだ、

 貞淑の鑑と見えた我が妃の心を。

 おお、ハムレット、なんという堕落ぶりか!

 私から、結婚の誓いと共に

 あれほど愛を注いだこの私から、

 生まれながらの才能も劣る

 あのような虫けらへと

 その身を移すとは。

 貞淑な女というものは決して心動かさぬはずだ、

 たとえ淫らな情欲が天の姿をして誘惑しようとな。

 ところが、淫乱な女というものは、たとえ輝く天使と結ばれていようと、

 こよなく美しい床に飽き、

 ゴミ溜めをあさってしまうのだ。

 だが待て! 朝風が漂ってきたようだ。

 手短に話そう。ある日の午後、

 私が例の如く庭園でうたた寝をしていると、

 その隙を突いて、お前の叔父が

 忌まわしきヘボナの毒の小瓶を片手に忍び寄ってきた。

 そして、私の耳に、

 癩病の如く肉を爛れさせる毒を注ぎ込んだのだ。

 その毒は人間の血とは相容れず、

 混じれば、水銀の如く直ちに全身を駆け巡り、

 ミルクに垂らした酸の如く、たちまち、

 澄んだ健やかな血液を固めてしまう。私の血も例外ではなかった。

 滑らかだった皮膚という皮膚が、一瞬にして

 腐り果て、樹皮の如くおぞましくも忌々しい

 瘡蓋に覆われたのだ。

 こうして、私が眠っているうちに、弟の手により、

 命も、王位も、妃も、一息に奪われてしまった。

 己の罪という名の花が咲き誇る中、命を断ち切られ、

 聖餐も受けず、聖油も塗られず、懺悔の暇もなく、

 神の裁きの前に引きずり出されてしまったのだ、

 この一身に罪を背負ったまま。

 ああ、惨い! 惨い! なんと惨いことか!

 お前に人の心があるのなら、これを赦してはならない。

 デンマーク王家の褥を、情欲と

 近親相姦の床にしてはならない。

 だが、どのような手段を取ろうと、

 心を穢すな。母に危害を加えてもならない。母のことは天に委ねるのだ。

 良心の呵責という名の棘で自らを苛ませばよい。さらばだ、もう行かねば。

 夜明けも間近。蛍火も儚く薄れはじめた。

 さらば、さらば、さらばだ。私のことを忘れるな。

 

 ここでいう「罪」とは具体的に何なのか。これに関しては解き明かしようがないかな…と思います。とりあえず、何かやったと考えるしかないでしょう。

 

 父王は思いもよらない形で殺害されてしまったのですから、懺悔を済ませていなかったとしても何ら不思議ではありません。とりあえず、『ハムレット』という作品において、キリスト教の死生観が反映されていることは間違いなさそうです。

 

 そして、この死生観はハムレットにとっての障害にもなります。

 

王 すまんな、よろしく頼む。

 

    ポローニアス退場。

 

 ああ、なんとおぞましい我が罪、この悪臭は天まで届いてしまう。

 人類最初の罪、兄殺しの罪の呪いだ。

 祈ることさえ赦されない。

 祈りたい、心から祈りたい、だが、

 この強い想いもあまりの罪の重さに押しつぶされてしまう。

 さながら二つの成し遂げるべきことを前に、

 どちらにも手を付けられぬまま、

 呆然と立ち尽くしているかのよう。この呪われた手に、

 兄の血が分厚くこびりついていたとしたら?

 ああ天よ、恵みの雨はないのですか、

 この真っ赤に染まった手を雪のように白く洗い流してくれる恵みの雨は?

 罪があるからこそ、慈悲があるのではないのか?

 人はなぜ祈る? それは、我々が罪を犯さぬよう守ってくれるから、

 罪を犯そうと赦しを与えてくれるからではないのか? ならば、面を上げよう。

 私の罪はもう過去のものだ。だが、ああ、どう祈ればいい?

 「忌まわしき殺人の罪を赦したまえ」か?

 それでは駄目だ、殺人によって得たものを

 私は今なお手にしているのだから。

 我が王冠、我が野心、我が王妃。

 それらを手放さずに、なんの赦しが得られようか?

 この腐りきった世の中では、罪に染まった手であろうと、

 金のメッキを施せば、正義の裁きから逃れることができる。

 悪事によって得た金で

 法を捻じ曲げることだってできるだろう。だが、天国ではそうはいかない。

 ごまかしは効かないのだ。やったことはすべて、

 あるがままに露見する。そして、否応なしに罪を突き付けられ、

 自白するよう追い込まれてしまう。

 では、どうすればいい? どうすればいいのだ?

 そうだ、懺悔をすればどうにかならないか?

 いや、駄目だ、見せかけの懺悔をしたところで、なんの意味がある?

 ああ、惨めだ! この胸のうちは死を思わせるかの如く黒く染まっている!

 この魂は、罠にかかった鳥同然、逃げようともがけばもがくほど、

 身動きが取れなくなってしまう! 助けてくれ、天使たちよ! やってみろ。

 曲がれ、頑なな膝よ、鋼のような心よ、

 生まれたての赤ん坊の如く柔らかくなるのだ。

 そうすれば、やがて救いもあるはずだ。(跪く)

 

    ハムレット登場。

 

ハムレット 今ならやれる。やつは祈りの最中。

 今やるのだ。(剣を抜く)――やれば、やつは天国へ行く。

 それで俺の復讐も終わる――いや、待て。

 悪党が俺の父を殺す、そのお返しに、

 俺が、一人息子の俺が、この悪党を天国に送り込む。

 ああ、それでは雇われ仕事だ、復讐なんかじゃない。

 こいつが父上を殺した、まだ現世の欲にまみれ、

 生きている限り拭えない罪が五月の花の如く咲き乱れる最中に。

 天が父上にどのような裁きを下すのか、知る由もない。

 だが、どう考えても、赦されるはずがない。

 それなのにだ、祈りで魂を浄め、

 死への旅路につく準備ができているこいつを殺したところで、

 俺は復讐を果たしたことになるのだろうか?

 いいや、違う。

 剣よ、鞘に戻れ。もっとおぞましい時を待つのだ。

 酔っぱらって眠っているときか、怒り狂っているときか、

 ベッドで近親相姦の快楽を貪っているときか、

 それとも博打を打って口汚い台詞を吐いているときか、いや、いつだっていい、

 救いようのない悪行に耽っているところを狙って、地獄に突き落としてやる。

 そうすれば、こいつの踵は天を蹴り、

 魂はどす黒く呪われ、晴れて地獄行きというわけだ。母上が待っている。

 その祈りも、お前の腐った命を長引かせるだけに過ぎない。

 

    ハムレット退場。

 

王 我が言葉は宙を舞い、我が心は地に沈む。

 心を持たぬ言葉は、けして天に届かぬ。

 

 つまるところ、懺悔をしているクローディアスを殺害することは、彼に永遠の命を与えることを意味し、罪を背負ったまま死んだ父の復讐にはなりえないと考え、ハムレットはクローディアス殺害を躊躇うというわけです。しかしながら、クローディアスは自らの罪が拭えているわけではありません。キリスト教において、懺悔とは「心から」自らの罪を悔い改めることであるからです。彼が口にしている通り、兄弟殺害の罪によって得られたものを手放すことなくして、赦しを得ることなど出来るはずもないのです。なので、ここでハムレットが仮にクローディアスを殺害していたとしたら、クローディアスは地獄の業火で永遠に焼かれる運命を辿っていたと私は考えています。しかし、先述の通り、ハムレットは慎重になり、クローディアスが「救いようのない悪行に耽っているところを狙って」、確実に地獄に落してやろうと考えるわけです。

 

 続いて、第五幕第一場のオフィーリアの埋葬場面に次のようなものがあります。

 

レアティーズ 儀式はこれだけなのですか?

 

ハムレット あれはレアティーズじゃないか。立派な男だ、見ていよう。

 

レアティーズ たったこれだけなのですか?

 

司祭 協会の許す限り、葬儀は最大限丁重に執り行いました。

 死因に不審な点もあり

 陛下が慣例を曲げるようお命じにならなければ、

 最後の審判のその日まで、墓地の外の穢れた土地に

 打ち棄てられ、慈悲深き祈りの代わりに

 瀬戸物の破片や小石を投げつけられるところだったのですよ。

 それがこうやって、乙女の花冠を被ることを許されたのです。

 花を墓に撒き、弔いの鐘や

 埋葬の儀式まで、十分すぎるくらいです。

 

レアティーズ これ以上はどうしても許されないのですか?

 

司祭 許されません。

 鎮魂歌を歌ったり死後の安寧を祈ったりすれば、

 安らかに眠りについた他の人々の葬儀を

 冒涜することになります。

 

レアティーズ 埋めてやってくれ。

 その美しく穢れなき身体からは

 すみれの花が咲き誇るだろう! いいか、薄情な司祭め、

 いずれ俺の妹は天使になる、

 そのころ貴様は地獄に堕ちる、せいぜい泣き喚いていればいい。

 

 なぜ、オフィーリアは手厚い葬儀を上げてもらえなかったのか。ここでは、彼女が懺悔をしていたのか否かは問題ではありません。私が思うに、彼女の「死因に不審な点」があったところに問題があったと推測します。彼女の死については実際に演じられる場面はなく語られるのみなので、推測することしか出来ないのですが、死因に不審な点があったというのはつまり、彼女が自殺をしたのか否かが疑われているのではないかと考えます。同じく第五幕第一場において、墓掘りが彼女の死について語る場面があります。

 

墓掘り キリスト式の埋葬なんてしていいのかね、てめぇで勝手に天国昇りした女によぉ。

 

相方 いいんだよ。だから、ちゃっちゃと墓掘ってやんな。検死のお役人様がちゃんと死因知らべて、いいって言ったんだから。

 

墓掘り ったく、何でそうなんだよ、我が身可愛さに溺れたわけでもあるめぇし。

 

相方 いや、そう決まったんだよ。

 

墓掘り そいじゃ、「暴行本能」ってやつが働いたに違えねぇ。要するによぉ、俺がわざと溺れたとしたら、そいつは一つの行為なんだ。で、行為ってやつにゃ、三段階あって――やる、する、行うってな。そいつのせいで、こいつはわざと溺れたってわけよ。

 

相方 いや、まあちょいと聞きなよ、大将――

 

墓掘り ちょいと待ちなって。ここに水がある。いいな? そんで、ここには人がいる、いいな? こいつがこの水のとこまで行って、溺れたとしてだ、こいつは、否が応でも、てめぇの方から来たってことになるんじゃねえのかってことだ。分かるか? けどよぉ、もし、水の方がこいつのとこまで来て、溺れさせたっつうなら、そん時ぁ、こいつはてめぇで勝手に溺れたってことにはならねぇ。つまりだ、てめぇが死んだのはてめぇのせいじゃねぇって野郎は、てめぇの命を縮めたことにはなんねぇってこった。

 

相方 けどよぉ、そいつは法律ってやつなのか?

 

墓掘り あたりめぇだろ。「検死のお役人様法」ってやつよ。

 

相方 本当のこと、教えてやろうか? こいつがもしいいとこのお嬢ちゃんじゃなけりゃ、キリスト式の埋葬なんてしてもらえなかったろうぜ。

 

墓掘り ほれ見ろ、言った通りじゃねえか。ったく、皮肉なこった、同じキリスト教徒なのによぉ、お偉いさんの方が身投げするにも首つるにも、俺たち下々よりも、やりやすいっつうんだから。

 

 このように墓掘りたちはオフィーリアの死を「自殺」と断定しています。ここで考えなければならないのは、キリスト教において「自殺」というものがどう捉えられていたのかということです。実は、第一幕第二場にてヒントとなる台詞が隠されています。

 

ハムレット ああ、堅い、体が堅い、こんな体は

 ドロドロに溶けて消えてしまえばいい。

 せめて、自殺を禁じる永遠の神の掟さえなければ! ああ、神よ、神よ!

 

 どうやら、キリスト教において自殺は禁忌とされていたらしいことがこの台詞から伺えます。何故でしょう? それは「生命は神の被造物である」という考えが根底にあったからだと考えます。この考えによれば、被造物の生き死にを操作できるのは創造主である神のみであり、それを自分で勝手に操作してしまう、すなわち自殺をしてしまうことは、神に対する冒涜に等しいことになります。考え方によっては、七つの大罪の一つ「傲慢」を犯しているともいえるでしょう。実際、キリスト教では自殺を殺人と同等の罪として考えられていますし、自殺した者の葬儀を執り行わないということは過去にあったみたいです。(言い忘れていましたが、私は無宗教なこともあり、浅い知識のままに話しています。)

 

 そういう背景もあり、オフィーリアは手厚く葬られることが許されなかったわけですが、実際のところオフィーリアは「自殺」によって亡くなったのでしょうか? 答えになっていないかもしれないですが、私は限りなく「自殺」に近い「他殺」だったのかなと考えていました。ヒントとなったのは第五幕第二場におけるハムレットの台詞です。

 

ハムレット この俺を赦してくれ、レアティーズ。君には悪いことをした。

 だが、紳士として、どうか赦してほしい。

 ここにいる者がみな知っているように、

 そして、間違いなく君の耳にも入ってきていると思うが、俺は

 酷い精神錯乱に悩まされている。俺のしたことは

 君の心や名誉を傷つけ、君に不快な思いをさせてしまった。

 だが、それもすべては狂気の仕業。

 レアティーズを傷つけたのは他でもないこのハムレットか?

 けして違う、断じてハムレットではない。ハムレットが自分を見失い、

 我を忘れたときに、レアティーズを傷つけたのなら、

 それはハムレットの仕業ではない。このハムレットが否定する。

 では、誰の仕業か? ハムレットの狂気だ。ならば、

 このハムレットもまた被害者の一人。

 彼の狂気こそがこの哀れなハムレットの敵なのだ

 どうか、こうやって皆の前で

 悪意はなかったという俺の弁明を

 君のその寛大な心で受け止め、俺を安心させてくれ、

 俺の放った矢は図らずも屋根を越え

 兄弟を傷つけてしまったのだから。

 

 つまり、このハムレットの考えに沿って、オフィーリアを殺したのは「オフィーリア自身」ではなく、「オフィーリアの狂気」だったのではないかと考えたわけです。しかし、オフィーリアが狂気に陥った原因について考えておきたいところです。理由は大きく二つあると考えています。一つ目は「オフィーリアがこの世を憂いていたこと」、二つ目は「オフィーリアがアイデンティティを失ってしまったこと」です。

 色々と考える前に、前提として、シェイクスピア自身が「女性」というものをどう捉えていたか簡単に確認しておきましょう。これは、ガートルードについてのご質問に対する回答にも関わってくるので。とりあえず簡単に書くと、シェイクスピアは「女性の名誉というものは貞潔であることにあり、名誉ある女性とは純粋無垢な乙女、あるいは夫だけに従順に貞節を尽くす妻である」と考えていました。因みにこの考えが如実に表れているのが『じゃじゃ馬馴らし』という作品です。じゃじゃ馬「キャタリーナ」は妹のビアンカと未亡人が自分たちの夫に不躾な態度を取るのを見て、物語の最後で次のように言い放ちます。

 

キャタリーナ そんな顔をしちゃいけないわ、眉をしかめて、

 蔑んだ目で見るなんて、

 それはあなたの主人を、王を、統治者を、傷つけるも同然よ。

 夫はあなたの主人、あなたの命、あなたの保護者、

 あなたの頭、あなたの君主、あなたのためを思い、

 あなたが日々平穏に暮らせるよう、

 海でも陸でも一生懸命働いて、

 嵐の夜でも猛暑の昼でも休まない、

 あなたが暖かい家の中で、安心しきって寝ている間もね。

 それなのに夫があなたに求めるのは

 愛情と、優しい顔と、従順さだけ――

 対価としてはちっぽけなものだわ。

 だから女は、君主につかえる臣下のように、

 夫に仕えるべきなの。

 でも、女って何て馬鹿なのかしら、

 ひざまずいて平和を希(こいねが)うべきなのに

 戦争を仕掛けたり、奉仕と愛と従順を命じられても

 支配と統治と権力を求めたりしてしまう。

 ねえ、か弱くて強情なあなたたち!

 わたしもかつてはあなたたちのように高慢で、

 大胆で、あなたたち以上に

 口答えして、睨み返していたわ。

 でも、やっとわかったの、女の振り回す槍なんて藁同然、

 力比べなんてできっこない、

 強そうに見えても本当はそうじゃない。

 だから、そんな無駄なプライドは棄ててしまいなさい、

 そして、夫の前に跪きなさい。

 わたしは夫が望むなら、

 いつだってそうしてみせるわ。

 

 このようにシェイクスピアは「貞淑・従順・寡黙」な女性を理想的だと考えていたわけです。その点、オフィーリアはシェイクスピアが考える理想的な女性像に概ね当てはまる人物だと考えられます。自分の意志よりも父親の意志を尊重し、父親の言いつけに「従順」に従う様子など、例を挙げれば切りがありません。

 

 これを踏まえて、先程書いた二つの理由について考えてみます。

まずは、一つ目の「オフィーリアがこの世を憂いていたこと」について。これに関しては、もはや言うまでもないと思います。兄と父からは「恋人と別れろ」と言われ、言いつけに従えば、恋人からは「お前など愛してはいなかった」などと虐げられ、極めつけには恋人の手によって父が殺されてしまうなど…、この運命を憂えずにいられるでしょうかという話です。

 

 次に二つ目の「オフィーリアがアイデンティティを失ってしまったこと」について。先ほども述べた通り、彼女は意志薄弱で父親を始めとした男性の言うことに振り回されてしまう人物として描かれています。

 

 研究者によっては彼女には意志というものが「全く」ないと言い切ってしまう人もいますが、それは違うかなと思います。彼女に意志がなかったとすれば、狂気など生まれるはずがないですから。

 

 しかし、そんな彼女にとってのアイデンティティとは何なのでしょう。

 

 有名な話ですが、オフィーリア(Ophelia)のО(オー)は数字の0(ゼロ)を表しているといいます。0(ゼロ)は知っての通り、「何もない」ことを表しています。恐らく、意志が「全く」ないといっている方はここからそう考えたと思うのですが、私は「何もない」のは「意志」ではなく、彼女の「アイデンティティ」の方を表しているのではないかと考えています。

 

 当り前ですが、0(ゼロ)は横に数字がつくことによって「在る」ことになります。例えば、横に1がつけば、10、横に2がつけば、20となるように。この1やら2に該当するのが、ハムレットやレアティーズ、ポローニアスなどと言った男性たちです。ハムレットが彼女の横に居れば、彼女は「ハムレットの恋人」ですし、レアティーズがいれば「貞淑な妹」、ポローニアスがいれば「従順な娘」ということになります。つまり、彼女のアイデンティティというものは、男性が横にいて初めて「在る」ものになるということになるわけです。

 

 しかし、彼女は作中で次第に「アイデンティティ」を失っていきます。兄はフランスへと旅立ち、ハムレットからは「お前のことを愛したことなどない」と言われ、ポローニアスはハムレットによって殺されてしまう。そうして、彼女の「アイデンティティ」がゼロになった瞬間、隠されていた意志は狂気となって表れてしまうのです。このように彼女が「アイデンティティ」を失っていく様は、次第に自らがどう生きるべきか、自らの「アイデンティティ」を見つけていく「ハムレット」との対比、一種の皮肉としても考えられます。

 

 まとめると、ただ単に「彼女の狂気」が彼女を死に追いやってしまったのだとすれば、彼女の死は「他殺」であったと言えるのですが、その彼女の狂気の故を辿ってみれば、彼女の意志、つまりは「オフィーリア自身」がこの世を憂いていたことにあります。それを考慮すれば「他殺」と断定するには難しいですし、一方で直接的に彼女を死に至らしめたのは「彼女の狂気」なのですから、「自殺」というのにもどこか違和感を覚えてしまいます。そういうわけで、私は彼女の死を限りなく「自殺」に近い「他殺」と考えました。

 

 話がかなり脱線してしまいましたが、最後にハムレットの父、すなわちデンマーク先王の亡霊は最後の場面に何を思うのかについて考えてみましょう。

 

 私がキリスト教の死生観が関係しているかもしれないと推測したのは、第二次世界大戦期の日本において「お国のために死ぬのは名誉なことだ」というプロパガンダが広まり、それが美学とされていたように、キリスト教の「死」に対する考え方によっては、亡霊がハムレットの死に何を思うのかが変わってくるかなと思ったからです。一応断っておくと、私は頭がお花畑なので、戦争がどうとかそういう思想はないです。

 

 『謎解きハムレット』でも言及されていますが、『ハムレット』の種本の一つとして考えられているトマス・キッドの『スペインの悲劇』では、復讐を望む亡霊が復讐の成就を見届けて喜ぶ様子が描かれています。しかし、『ハムレット』において、亡霊が最後に姿を現すのは、第三幕第四場であり、第五幕第二場に出てくることはありません。何故なのか。「ハムレット」は最終的に「過去(父の死)があって今をどう生きるか(To be, or not to be)」ではなく、「天の運命のままに未来に向かって名誉のために生きる(Let be)」ことが自らの生きる道だと悟るからです。つまり、未来に向かって名誉のために生きる「ハムレット」にとって、「父の死」はもはや取るに足らない問題になってしまったため、その眼には亡霊である父の姿は映らなくなったというわけです。逆に「ハムレット」の眼に父の姿が映らなくなったことは、「ハムレット」が「過去」という名のしがらみから自らを解放したことを象徴しているとも言えます。また、このように種本である『スペインの悲劇』と差別化をしたことは、『ハムレット』があくまで自らの「アイデンティティ」を追い求める一人の人間の姿を描いたものであり、けして単なる「復讐劇」ではないということを象徴しているという見方をすることができます。

 

 そういうこともあり、まず、少なくとも亡霊が最後に「喜び」の感情を抱くことはなかったと言うことができるでしょう。最後に「喜んで」しまえば、この『ハムレット』という物語が単なる「復讐劇」という浅はかな物語になってしまうのですから。

 

 「喜び」でないのなら、亡霊は最後に何を思うのでしょう。キリスト教の死生観に関してはここまで言及してきた通りです。それを踏まえて、第五幕第二場のヒントになりそうなところを探ってみましょう。正直まだ私も手探り状態なのですが。

 

ハムレット さあ、近親相姦の殺人鬼、忌々しいデンマーク王め。

 この毒を飲み干すがいい。

 

    ハムレット、王に葡萄酒を無理やり飲ませる。

 

 ほら、貴様の真珠だ。

 母上のあとを追え。(王は死ぬ)

 

レアティーズ 当然の報いだ。

 王自ら盛った毒なのだから。

 お互いに赦しあおう、ハムレット。

 俺と俺の父の死が、君の罪になりませんよう。

 そして君の死が、俺の罪になりませんよう。(死ぬ)

 

ハムレット 天が君をお赦しくださいますよう。俺もすぐに行く――

 君ともお別れだ、ホレイショー――哀れな王妃よ、さようなら!

 君たち、そんなに青い顔して、この惨状に打ち震えているのは、

 この芝居の台詞のない役者のつもりか、それとも観客のつもりか。

 ああ、時間さえあれば――死という名の冷酷な神の使いが

 俺の命をしっかりと握ってはなさない――ああ、まだ君には話したいことがあるというのに――

 だが、なるようになれだ。――ホレイショー、俺はもう死ぬ。

 君は生きろ。生きて、俺のことを、そして俺の信念を

 何も知らない人たちにありのまま伝えてくれ。

 

 ここで、ハムレットとレアティーズはお互いを赦し合います。お互いの犯した罪が天に赦されることを祈りながら。しかし、これは懺悔をしたことになるのか…? 

 

 冒頭でカトリック・プロテスタント・正教会で微妙な違いがあると述べましたが、その違いをここで言及しておかねばなりません。カトリック・正教会における懺悔は、懺悔室において神父と二人きりになり、神父に罪の告白をするという形で行われます。すなわち、神父を仲介人として間接的に神へ罪の告白を行うのです。場所が限定されることや時間や人的な制限もあるため、一般的にカトリック・正教会の懺悔は少なくとも年一回は行うこととされています。一方、プロテスタントにおいては、場所の制限はなく、いつでも神に直接罪の告白を行うことができます。そのため、プロテスタントは一日一回、多くの場合は就寝前に懺悔をすることが習慣となっているようです。

 

 ハムレットとレアティーズがプロテスタントであるならば、彼らはここで懺悔をしたことになります。しかし、ハムレットはドイツのウィッテンバーグ大学に通っていたことからプロテスタントと考えてもよさそうですが、前回のご質問への回答によれば、レアティーズはカトリック思想のはず。それとも彼はカトリック的な人間ではあるが、信教はプロテスタントだったということ? う~ん、分かりません。細かいことは気にするなってことですかね。

 

 まあ、取り敢えず、彼らが懺悔をしたってことにしましょう。これで、彼らは天国に行き、永遠の命を授かることができます。それならば、亡霊も喜んでいい気がしてきます。息子が自らの生き方を見つけ、名誉のために立派に闘い、復讐を果たしてくれた。亡霊にとってはいいこと尽くしです。しかし、ここで考えなければならないのは、亡霊がどのような未来を思い描いていたかです。

 

 まず言えることは、亡霊が息子の死をけして望んではいなかったということ。一般論ですが、自分の子供が死ぬことを望む親はまずいません。ましてや、亡霊がハムレットの言うように「太陽神のような立派な王」であったのならば、なおさらそうだと考えるのが普通です。では、亡霊が思い描く未来とは? あくまで私個人の考えですが、ハムレットが復讐を果たし、王となることで、自らが王位にあった時のかつてのデンマークの姿を取り戻してくれることを望んでいたのだと考えます。つまり、亡霊は復讐のその先にある未来をも見据えていたのではないかということです。私腹を肥やすことしか考えないクローディアスが王位にあっては、デンマークは腐っていくばかり。かつてのデンマークを取り戻すにはクローディアスを王から引きずり落とすことが絶対条件となります。冒頭におけるハムレットでは王位についたところでデンマークはかつての姿を取り戻せるのかという疑問はありますが、考えてみれば確かに、息子に賭けるしかもう道は残されていません。

 

 結果的に見れば、ハムレットは王を引き継ぐに相応しい人間へと変貌を遂げました。それだけに、最後に死を迎えてしまったことは、亡霊にとっては悔やんでも悔やみきれないことだと推測されます。また、こう考えるとハムレットの死は亡霊に対する皮肉だったのかなとも。しかし、もはや亡霊は息子に死をもたらしてしまった自らの無力を呪い、奈落の底に沈んでいくことしか出来ません。悔いと悲しみ、地獄の業火にその身を焦がしながら。

 

参考文献

・河合祥一郎 『謎解き『ハムレット』』,東京:ちくま学芸文庫,2016