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ロシマヤンのブログ

心理学の知識を元に、人間の生き方や社会のあり方について

自分なりにいろいろ考えていきたいと思っています。

感想など、コメントいただけると幸いです。

公立のはもうどこも夏期休業に入っているでしょうか


元気でもうどうにもてがつけられないやんちゃっこたちと


日々がんばって格闘してきた先生方、お疲れ様です。



子供と違って先生たちは休みの間にいろいろしなければならないこともあるのでしょうけれど


ひとまず1学期、おおきな問題もなく教室を指導してくださってありがとうございました。



今日はマクロとミクロの学校問題について

ちょっと考えてみたいと思います。



大阪で教育に行政が関与を強め

生徒も先生も競争主義的様相を呈して来ましたけれど

ここにはマクロとミクロの視点の違いが今後現れるのではないかと心配しています。


この場合

行政 vs 教育

学校長 vs 担任

学校全体 vs 各教室

という分け方をマクロ vs ミクロと表現しています。


つまりなにが言いたいのかというと学校運営には対立する2側面があって

単純に成績や実績をもとにした競争原理を導入することによって

ミクロの側(マクロに対して少数派や弱者といえるかもしれませんが)の視点が学校運営から省かれてしまうのではないかと心配しています。



そもそも学校運営には進学・就職実績を出すというマクロの側面と

一人一人の生徒の成長を見守り促すというミクロの側面がありますよね。


前者は社会からの強い要請であり、とうぜん必要なものです。

また後者は社会からの要請を達成するためにも不可欠なものです。


ただし問題は競争原理中心になると進学・就職実績をあげるという側面が強調されすぎることです。

そのために実績を出せる生徒はしっかりみるけれど、そうでない生徒は自宅学習でもして課題を提出してくれていればいい、なんて極端な指導が出てくるかもしれません。


それはそれで確かに一理あります。

またすべての生徒が同じように学校に行き、同じ授業を受けるべきとも思っていません。

しかし、すべての生徒一人一人にみあった学習を提供するというミクロの視点が決定的にかけていないでしょうか。


コストを度外視した政策かもしれませんが

すべての生徒一人一人に適した教育の提供、実施こそ最大の教育の実績ではないでしょうか。



しかしこうしたミクロの視点は残念ながら社会的に少数派にとどまるのでしょう。

その理由はミクロの立場に人々は、往々にして現場をよく知る人だからと私は捉えています。


社会全体に対し教育現場に身を置く人々が圧倒的に少ないのです。

生徒一人一人のことを考える立場にあるのはやはり教室で生徒と過ごす担任の先生方です。

その代表が学校長となるのでしょうけれど


学校長 vs 担任の関係で言えば

生徒一人一人の問題を把握しようにも把握できない学校長はどうしても担任教師よりもマクロな視点で対応せざるを得ません。問題児のいるクラスは問題のあるクラス、仮に問題のある子供がいるなら、その子にふさわしい個別対応をとることでその子のクラスは問題なくなるのですが、クラス単位での判断基準を持つため個別対応は難しくなります。


学校全体 vs 各教室の関係も同様にいえるでしょう。

各教室ごとに生徒たちと担任の関係はことなり、その教室ごとに必要な取り組みは異なるのでしょうけれど、学校全体としては統一だてて動かなければ全体として高く評価されません。


行政 vs 教育の関係が一番抽象的ですけれど

行政は社会全体を運営する都合から社会に必要な人材像を示し、教育はこれを受けて社会で必要とされる人材の運営に当たります。しかし教育目標を定め、目標達成度を測る主体が行政であるならば、教育は行政の評価に自らを落とし込まねばならず、生徒一人一人とむきあうミクロの視点が活きてこないでしょう。



たしかに教師一人一人が校長と対等な権限を持てるわけもなく。

同様に各教室ごとの都合で学校全体を動かせるわけもなく

教育の実情に関係なく効率化をめざす社会全体としてのニーズがあるのでしょうね。



ここでひとつ伝えたいのが郡態の思考です。


一人一人が自己利益について考えるのではなく


一人一人が全体の利益を自己のそれと同等に考えて動くようになれたらいいと思います。


一人一人の権利や主張をぶつけ合い議論し社会の最適解を求めていたのが近代社会システムなら


郡態の思考は個別の利害関係から切り離されて、既得権益からうまれる権力闘争の影響を最小化できます。


そして郡態の思考はミクロな立場にある人々全員の考えの総体によって形成されます。



アラブの春ではFacebookを通じ

社会の若年層を中心に、多数派(権力者)を少数派(一般市民)が打倒することに成功しました。

たくさんの人々の声が揃うことによって大きな社会勢力が形成されます。



今回の場合、教師一人一人が声を上げ

生徒一人一人にみあった教育機会の提供のためには

一律に成果を課すだけでは逆効果であると唱えなければならないでしょう。


もっとも生徒一人一人を思いやるミクロな立場にいるのは

教団にたつ先生方一人一人なのですから


ただし郡態の思考は集団によるたんなるヒステリーではありません。

ネット掲示板の炎上をつたえるニュースなどをみていればわかるでしょうか

単に現状に対する不満をぶつけるだけ、ゴシップに惑わされる言説はネットを通じ巨大化しても

所詮は近代的な権利の奪い合いに終始します。


エジプトで次期政権の主体が

全政権打倒の中心層であったひんこんにあえぐ若年層ではないことが象徴的です。



ただ今の不満を訴えるだけの民衆は自律した郡態ではありません。


自分がお金を払いたくないから消費増税反対

単に原発事故が怖いから原発再稼動反対

沖縄県民がかわいそうだから米軍基地反対


これらは集団ヒステリーときってすてます。



反対することに問題はありません。

反対する理由と、その問題を解決するための取り組みと、それらの根底にある社会の理念とが示される必要があるのです。


いわば熟慮を伴わなければ

2チャンネルのスレッド炎上とおなじレベルの言説しか生まれてこないのです。



自律した郡態のして教育改革を迎えるべく

一人一人の教師が生徒一人一人と向き合うために

社会全体としてどうするべきかを考えなければなりません。


そしてその考えを声に出しましょう。

一人一人が熟慮に熟慮を重ね

良質な言説を唱え続ければ


やがて郡態としてまとまりをもち

自律した社会の運動へと変容してくでしょう。



夏休み

子供たちから開放されて

ますます気の抜けない期間となっていしまいますが


どうか先生方、生徒一人一人のため

よく考え、そして声に出しましょう。