2007年、NACSが演じたHONORの当時観劇レビューとなります。
今はなきブログサイトからの転載。
硬めの文章もまたご愛嬌ということで、当時の熱量ともども笑って眺めていただければ幸いです。
■演:TEAM NACS
■脚本・演出:森崎博之
恵織村の『祭』復活を願い、友や大切な人との約束のために、己の50年を懸けたひとりの男――五作。
そして、五作と約束を交わした4人の仲間と、五作に太鼓を教わった4人の子供。
小さな村の中で流れる70年は、神木を中心に子供たちの人生を映し、同時に五作の哀しいくらい誠実かつ純粋な想いを内包する。
『TEAM NACS ふるさと公演』と銘打たれた結成11年目の作品は、これまで彼らが築いてきた様々なものを踏まえた上での原点回帰、である。
懐かしさと新しさ、何とも言えないあたたかさと安心感。自分の中にあるものを思い出させてくれる、自分がいま立っている場所を見つめなおすきっかけをくれる、そんな物語であり舞台だった。
丁寧に積み上げられていく芝居、丁寧に自分を作り上げていく芝居、丁寧に時間と想いを重ねていく芝居。
演技力ではなく、演劇力の底上げ――彼らの実力、彼らの芸術性、彼らの持つ彼ららしい魅力に一際磨きが掛かったと感じた。
彼らの個々の活動の集大成が、ひとつの舞台としてカタチになる。
演技の幅が広がり、安定感が増し、五人で完結する五人の世界が何よりも心地良く感じられた。
パズルのように組み上げられた作品は、時系列や人物の混乱を免れ、台詞で、演技で、小道具で、いま誰が何を演じているのかを理解させる。
ここに、脚本と演出が持つ『構成の秀逸さ』が光っている。
舞台芸術という言葉を最近知った。
その意味を噛み締めながら、ソレを意識しながら、追いかける楽しさがあることも知った。
けれどそれ以上に、感性に訴えかけてくる『途方もない愛情』を、観客側として真正面から受け止められた。
ふるさとについて考える。
過ぎていく長い時間について考える。
誰かを思うこと、誰かを待つこと、誰かを護ることは、時に自分の心をどうしようもなく傷つけてしまう――それでも強く強く願い、成し遂げようとする意思に、いつしか自分の心も奮い起こされていく感覚が素晴らしい。
50年後の彼らと共にありたい、そう願わずにはいられないのだ。
以下、ネタバレを含む感想を。
主役は五作。
衣装のみをわずかに変えて、後は老人の姿で子供時代から老人までを演じ切った彼は、だからこそたったひとり、移り変わらない象徴となって『そこ』に留まり続けてくれる。
恵織村の象徴としての彼が生きている。
彼の視界、彼の想い、彼が見た夢のカタチが、70年という時間の中に凝縮されているのだ。
残される側の痛みと悲しみは、残して逝った者の無念とはまったくのベツモノだ。
神木が燃えていくのをみ、絶叫し、慟哭した彼の姿、彼を押し留めたふたりの友人の姿、それぞれが必死すぎて、哀しく痛い。
五人で太鼓を叩く。祭をする。かならず、やる。
五作を含めた祖父の世代。
この世代に取り交わされた約束が、長い長い時間を掛けて成就された。
思いがけないところで繋がっていく人間関係、不意にパズルのピースがはまった快感と共に理解する相関図。
うまい、としみじみ思う。
かつて果たされなかった約束のために、今はもういない者たちへ語りかけながら、必死に植樹を続け、太鼓を教え、神木からはなれることなく生き続けた彼の一生。
どうしようもなくヒトリは淋しくて、でも淋しがり屋の彼女が淋しくないように、戦い続けた時間。
悲痛で切実な声を思い出すたびに目の奥が熱くなるのは、それだけ五作の思いを自分の中に取り込んでしまっているから。
祭復活のために奔走した4人の子供、そのひとり、花男について。
五作を師匠と慕い、他のメンバーが飽きて辞めてからも太鼓を習い続けた彼は、きっと誰よりも五作を好きで、だからこそ『自分を見てくれない師匠』に絶望してしまった。
迷っただろう。困っただろう。師匠が言うから故郷を出ると決めたのに、その決意を告げた途端、彼の言っていることが180度変わってしまったことに驚き、悲しんだだろう。
思春期の、少年が触れてしまった老人の狂気にも似た激しい痛みと闇は、思わず逃げ出してしまうほどに凄まじかったと思う。
そして。
都会生活の中で『女』になった彼の、切ない思い。
佐藤重幸の、あの叫びはどうしようもなく胸にくる。
自分を見てくれないことに絶望したのに、大切な五作のために彼の想い人の格好をして、なのにソレまで焦点のあわなかった五作が自分を見て自分の名を呼んでくれた時の、あふれる思い。
泣く、だろう。
魂が震えた瞬間、師匠に『魂がこもっていない』と言われた彼のバチ裁きが、ラストで大きく変わる。
チエの存在。大きすぎて重すぎて、可愛らしく、切なく。失う痛みを何より強く表現してみせた『音尾琢磨』は名女優、だと思う。
そして。
普通に女優をいれてしまうのではなく、彼等だけで演じ切るからこそ生まれる空気、生まれる時間の濃密さ、恵織村という小さな共同体の中で息づく『血』を感じられるのではないだろうか――というのは個人的見解。
誰かと似たヒト。
誰かに似たヒト。
重なる面影の中に、重ならない相手の中に、『70年の時間』を見る。
この『厚み』は特別に大切なものではないだろうか、と思うのだ。『これこそNACS』と言える芝居になるのではないだろうか、と思うのだ。
ひとりで何役もこなすことで生まれる役側の混乱を、彼らは既に克服した。
だとしたら、『ずっと五人で』ということに拘った世界を堪能したいと思う。
また、コウタとして4人の子供たちのヒトリになった時の彼は、『花火職人』の血を引いた、物語のもうひとつの鍵を握る。
かつて森の中で祖父の魂と再会した彼。自分のミスで一度は離れた花火師の世界にもう一度戻ろうと決めた彼。そのやり取りにはっとさせられる。
祭りは一人ではできない。
祭りは皆で作り上げて行くものだということを、改めてここで認識させられる。
ただひとり、寺を継いで五作を見守ってきた秀一のスタンスは、非常に優しい。
それぞれがバラバラになっていき、いつしか忘れていく想いを、彼は『白樺の苗』で繋いだのだ。
家を継ぐということで、他の誰よりももしかすると当たり前に村に残る理由を与えてもらっていたのかもしれない彼の、だからこその残される側の淋しさが感じられる。
彼は純粋。
どこまでも、純粋に愛していて、移り変わる世間の中で、子供時代から変わらずに『寺の息子』として仲間へ手を差し伸べる彼は、五作とは違う、『子供たちの世代の恵織村』を象徴しているように思う。
誰もが大人になることで変わっていく。けれど、その変化のただ中で『変わらないモノ』を見た時の安心感、それを、彼が作り出していた。
大泉洋の独特の間の取り方や喋り方で小ネタを披露するのだが、ソレはあくまでも秀一の時、しかも仲間との応酬時のみ。
角田林業をつくり、村の盛り上げ役だと言ってのけた祖父の世代・リンタロウの彼は、控えめで力強いリーダー的存在となる。
その角田の血を引く、恵織村最後の村長タカシ。
自ら望んだわけでもないのに村を出て行くはめになったタカシの立場は微妙だ。
ソレは彼が演じた、祖父世代の徴兵でも同じ。
時代の流れがもたらした『変化』さえなければ、ずっとそこに留まれたかもしれない彼の持つ運命と哀しさと戸惑いを垣間見る。
だからこそ、村のリーダー役として、一度は村を離れた彼が自分の役割に誇りをもって、祭復活に奔走するさまがたまらなくいい。
森崎博之の存在感は、そのまま物語が持つおおらかさや懐かしさ、安心感やあたたかさになっていく。
信じたい、ついていきたい、どこまでも彼と一緒なら大丈夫だと、そう思わせてくれる大きな存在。
お坊ちゃん育ちの彼は苦労する。
けれどそのやわらかな優しさが、同じく都会にでた友人たちに携帯電話で繋がっていくさまも素晴らしい。
『解散させるのがリーダーかよ。守り続けるのがリーダーだろ!』
子供たち4人の関係が終わるかもしれないと思わせた卒業式でのライブシーン、一瞬そこに『NACS』のリーダーを重ね見てしまう。
何もない場所で沼や大蛇を空想し、ごっこ遊びに興じる子供時代が微笑ましい。
と同時に、子供次代には何もなかった場所に木々が茂るといった時間的演出が素晴らしくもある。
時代背景と経過も小気味良い。
小ネタが多く、笑いをふんだんに盛り込み、メンバー内の等身大的な遊びを取り入れた素の姿は、絶対的な安心感を与えてくれたように思う。
ケン・タウロス、遊びすぎ。
でもそこがいい。
そして、肩肘を張らない分、届くまっすぐな情熱。
和太鼓に掛ける情熱。凄まじいまでの完璧な演舞。吹き替えではなく、彼らの成果がそこに凝集されている。
ただただ、響く。
嬉しそうに、楽しそうに、曇りのない幸せな時間の中で、五作と、五作の友人の血を引いた者と、五作の記憶と想いを強く魂に刻んだ者とが繰り広げる、連弾。
結ばれて、繋がれて、絡み合って、通じ合って、どうしようもなく愛おしい。

