以前、創作に絡めて語ったりもした『配慮』について。
『配慮』とは『想像力』
『想像力』とは『経験』
『経験』とは『解釈』
……的な話を友人としました。
自分が体験したものを解釈して経験に変えて
経験が価値観を作って
その経験と価値観をもとに想像力が培われて
その想像力によって、配慮の範囲や質が変わる
配慮する、ってむずかしいのですよ。
どうしても、自分の価値観がものさしになりがちですもの。
自分の価値観でできた自分の物差しは、自分ルールとも言えるわけで。
「なんで〇〇できないの?」
「なんで〇〇してくれないの?」
「ふつう〇〇するよね」
という苛立ちも、
もとを辿れば自分ルールの延長線上におりますもの。
ここが無自覚だと、
『相手も当然このルールに則って考え行動すること』を強要しがちですし、
時には、
『こんなに配慮してやってるのに』
になっちゃうのですよね。
良かれと思っても見当違いだったり、
お互いがズレてて、お互いにストレスになったりもします。
だから、
双方の価値観のすり合わせ、ルール確認が、『配慮』のおとなりに常にいる
そう思ってると少し楽。
『合理的配慮』って存在も、誰にとっての何なのか、が抜けると独りよがりになりがち。
なのでほんとお互い、「腹を割って話そう」!