美貌の医師の優雅な日常
ティータイムに謎解きを。
身も心もとろけるような極上のスイーツを舌で堪能し、ドクターは一人、休日のティータイムを愛すべき書物とともにゆったりと過ごす。
大学病院の臨時職員として、診療と研究に勤しむ彼の日常はスイーツとミステリ小説と共にあるといっても過言ではない。
病院以外のどこに居そうかと問われれば、太陽の元でも、夜の繁華街でもなく、優美なカフェテリアというのが周囲の大方の見方であり、ソレは限りなく真理だった。
そして、最近彼が最も足を運んでるのが、時計と鉱石をモチーフにグリーンで統一されたカフェ――『翡翠館』だった。
適度な賑わいは好ましく、特に植物に囲まれた最奥のこの席に届くさざめきは計算された音楽のように心地よい。
笑みをたたえ、ドクターはそっとページを繰る。
そんな中、ふと耳に飛び込んできた会話があった。
「これ、うっかり拾っちゃったんだけどさ……なんだかさっぱりで」
視線を転じれば、近くの席に座る大学生と思われる青年が、友人に一枚の紙切れを見せているところだった。
その内容がチラリと視界に入り込む。
BP180/102 P115 T38.8 SAT81→94 Dx107
「びーぴーひゃくはちじゅう……なんだこりゃ? 俺にはパソコンの型にしか見ねえけど」
「暗号、かな?」
「お、いいな、その展開。変な事件に関わっちまうとか、ありえそうだよなぁ」
「やめろよ、シャレになんないんだからさぁ」
危機感はまったく感じられないが、ふたりは額を突きあわせて紙を覗きこみ、文字列を読みあげては、ああでもないこうでもないと首を捻っている。
「気になっていらっしゃいます?」
ふわり。
美を賛辞する数多の言葉をどれほど長く連ねようと完璧に形容することは叶わない美しきカフェオーナーが、たおやかな笑みを浮かべて立っていた。
「おや、わざわざ私のテーブルに?」
「ドクターがいらしてくださったのに、ご挨拶のひとつもしなくては失礼になりますから」
「光栄ですね」
交わされる微笑には、一幅の宗教画すらかすむ価値が含まれて居るのだが、そこにはなぜか同属性ゆえの親近感めいたモノがほの見える。
「お座りになりませんか? もしよろしければ、ですが」
「では少しだけ」
流れるような所作で席に着いたオーナーと対するため、ドクターは読みかけの本をそっと閉じる。
相手はにこやかに視線を周囲にめぐらせ、そして彼に、好奇心の色をたたえた幼子めいたカオで問い掛ける。
「あのお客様が悩んでいらっしゃる暗号、ドクターなら、すぐにお解きになれたんじゃありませんか?」
それはミステリ好きにして一部では探偵と評される彼への、信頼の表れではあったのだが、受けたドクターは少しだけ目を細める。
「……ああ、それなのですが」
紅茶を一口。
極上というのはこれにこそ相応しいと、小さく溜息を洩らしてから、ドクターはゆったりと微笑んだ。
「アレはそもそも暗号ではないんですよ」
「あら、そうですの?」
「ああして謎を解こうとする時間が一番楽しいものです。そこでわたしが正解を言ってしまっては興ざめになるでしょう」
「まあ……では危険はないのかしら? 期待するような冒険も?」
「知っている者にとってはごく日常的な単語であり、知らない者にとっては不可解な暗号と映る。これは少々面白い視点だとは思いますが」
ミステリのトリックにはあまり使えないかもしれないと、彼は続けた。
例えば、紙を拾った青年がもっと違う友人に声を掛けていたら、あるいは手元のタブレットで検索のひとつでもかけてしまえば、文字列の意味は簡単に解けてしまい、謎であり続けることはできなかっただろう。
そうすれば、彼らのティータイムはひどく味気ないものとなる。
「わたくしでも解けるものでしょうか?」
「ええ、もちろんです」
ドクターは再び紅茶を口にし、そして、ラベンダー色のジュレが美しい巨峰のタルトへと手を伸ばす。
和三盆すら自ら研ぐという専属パティシエの矜持に満ちた逸品だ。
これぞ至福と、しばし香りを口の中で堪能し。
その間ずっと文字の意味に思いを馳せていたオーナーへと、ひとつの提案を差し出した。
「では、せっかくおこえがけくださったあなただけに、こっそりと"答え"をお知らせいたしましょうか」
「わたくしだけに? それはステキです」
「解いてしまえば実に他愛のないものですが、よろしいですか?」
「ええ、構いませんとも」
「では」
可愛らしいとすら言える仕草で首を傾げて頷く相手と、そっと声を落とし、囁くように、彼は解答を差し出した。
「血圧180の102、脈115、体温38.8℃、動脈血酸素飽和度81%から94%へ上昇、血糖値107……」
「それって」
「つまり、疾病をもった方の身体データです」
ふたりの視線が重なり合う。
「肺機能が落ち、熱も血圧も高い。少々このデータをお持ちの方が心配ではありますが、ね」
「それでは……わたくしは、その方が全快されるのを祈りながら、なぜそのメモガチがあのお客様の手に渡るに至ったのかを考えたらいいでしょうか?」
くす。
くすくす。
ひとつのテーブルで謎が生まれ、ひとつのテーブルで謎は解かれ。
様々な日常と交錯しながら、今日も穏やかに、賑やかに翡翠館のティータイムは過ぎて行く。
END