◆幾つの大罪

あらすじ:

とある拘置所内で、ゴシップ記者により、集められた死刑囚6人。

彼らは本物の殺人者による殺害方法のブレストを求められていた。

しかし、取材の最中、彼らはひとり、またひとりと謎の死を遂げていく……



我らがTEAM NACSのソロプロジェクト『FIVE DIMENSIONS II

最推したる戸次重幸の脚本演出舞台作品が開幕、そして大千穐楽を迎えました。


観劇は札幌公演の5/672度。

オチを知り、二度三度と観るごとに印象が変わっていく舞台は、

まさしく戸次重幸脚本の真骨頂!


ブラックコメディのテイストを持ちながら、人間の深淵を覗き込み、複雑に入り組み、積み上げられていく物語。

飛び交うアップテンポな会話の中に仕込まれた毒がじわりと効いてくるのです。


不意打ちで、こちらも巻き込み、諸共に刺してくるセリフの鋭利な切れ味もさすが。


黒くて、グロテスクで、重い感情がどろりと澱んでいて。

執着と依存が混ざりあいら病んだ哄笑が頭の中に響き続けるかのよう。


けれど観終えた後に残るのは、いっそ爽快さや清々しさですらあるところもさすが戸次脚本なのです。


以下、ネタバレを含む感想や考察を徒然に。



取り扱うのは、刑法39条。

問われるのは、罪への責任能力。


7つの大罪に対応する死刑囚たちのキャラクター性が非常に興味深くもあり、彼らの供述の全てを信じるには矛盾が混じり、信用しきれない。


本当は、彼らはどんな罪を犯したのかと考えてしまう。

そして、死刑囚を知ろうとするとき、取材を行う大谷というキャラがとにかく良いのです。

振り回されているようで、ふいにその印象を変えてくる。

子犬のような可愛らしさや従順さを見せてきたかと思えば、違和感と歪さをところどころでみせ、最後にドンッと突き飛ばしてくる。

ここまで大きく振れ幅のあるキャラクターを演じきってくださった須賀健太さんを心から尊敬します。


上手いのは、怠惰や傲慢などの大罪を会話の中で仕込んであること。


そして、囚人たちの奇妙なプロフィールの一致の後に判明するのは、解離性同一性障害(所謂多重人格)というひとつの"答え"


彼らは作られた存在。

ゆえに、当然の如く名前にも意味づけがなされた存在。

隠された7つの大罪が明かされる瞬間はまさしく圧巻であり、美しい演出でした。


そのうえで。

治療の過程で自分の人格を殺していく、というのは、確かに言われてみれば気づけるようになってる。


でも、そこでさらにもう一段、ネタが仕込まれている。

二段構えのどんでん返しはいっそ気持ちがいい!


そして考えるのは、

『彼は本当に主人格ではなかったのか?』

という疑問。

そもそも、メインで表に出ている(日常生活を現実で行う)人格が、主人格であるとは限らないわけです。

すべてを把握できているわけでもない。


冒頭で断片的に伝えられるニュースは現実のものとして、それをしたのは、実際のところ誰なのか?


女性とは傲慢な生き物だと断じて、かつ、同性愛から色欲が生まれた過程を考えると、本体は男性の可能性が高そうなのです。


でも、ラストシーンはそこに矛盾する、気がする。

本当に死刑囚たちが供述した通りの事件がそのまま起きていたとすると、そこにも矛盾が起こる。


だとすると。

大谷も作られた人格だとして、ラストに用意された存在もさらに作られた人格である可能性もあるのでは?


父親に、「お母さんに似てきた」と言われることで、男でありながら母()になろうとはしなかっただろうか?


あの舞台にはいない存在が、真の主人格ではないだろうか?


そもそも、大谷という人格すらも、ひとつとは限らないところも怪しく思える。


大谷には、殺人鬼を生み出した大谷と、罪を犯した大谷(憤怒)と、罪から逃れるために新たに生み出された大谷(逃避)がいるのでは、と思いはじめてるのです。


羊たちの沈黙から始まり、多重人格とシリアルキラーとプロファイリングを履修してきた私の感覚が、犯人は男だって言ってる。

でも、その感覚(固定概念)すらも、戸次重幸の手のひらで踊らされた結果なのかもしれない。


ここでまた、思考の迷宮へ嵌り込んでしまうのです。


心理学を、思考過程を、戸次重幸の頭の中を、想像しながら、また試行錯誤しながら考えてみる。

観終えた後に尚楽しめる、最高の舞台作品でした。