その日、青年は自身がクローンであることを知る。

けれど、問い詰めた父から帰ってきた言葉は真実である保証もなくすれ違う。



キャリル・チャーチル作による戸次重幸と益岡徹の70分にわたる2人芝居であり、アイデンティティの物語となる。


戸次重幸の"3人の息子"の演じ分けがまずすごい。

同じ顔、同じ声、なのに表情が、仕草が、ちょっとした反応のひとつひとつが別人として映る。

愛された子供、愛を求めた子供、愛を見つけた子供の、それぞれの生き方や内面の揺らぎ、在り方そのものが垣間見える。

彼らの生きてきた軌跡、言葉の向こう側に膨れ上がった感情、それらが滲み出てくる。


対する父であるところの苦悩と、傍若無人なまでの愛の発露。


歪み続ける父と子の関係性の果てで、主題となるのは、クローンの倫理観でもなければ、生命への警鐘でもなく、2人の関係性とアイデンティティであるところもまた興味深い。


かわされる言葉すらも、歪んでいる。

真実も事実も曖昧で、そこには自己防衛と自己憐憫と自責と他責がいりまじり、会話の外側にある表情やしぐさ、あるいは舞台上の小道具や照明の方がよほど雄弁に真実を語ってみせることも多い。


ただ目の前にあるものだけ,聞こえてくる言葉だけでは辿り着けないものがこの舞台には満ちているのだ。


繰り返しみること、パンフレットを読み込むこと、他者の考察や視点を取り入れること。

それによって、この物語の解像度はより高くなり、その深度はより増していくのだとも感じさせる。


答えのないなかで、解釈が広がり、変化し、あらたな意味を見出す面白さとともに、噛み締めたくなる舞台だった。



なお、劇中において、息子の名は一度たりとも呼ばれることがない。

そこに業の深さを感じてしまうのは穿ち過ぎなのだろうか。


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