老年期の内科病棟にいると、必然的に、終末期として、延命治療や急変時の対応についてご家族の葛藤とも向き合う機会が増えます。


選択を迫られたご家族さんたちはとてもとても悩まれるんです。

「できる限りのことを」と望む反面、「苦しいことはしてほしくない」とも望まれます。

「どんな形であっても生きていてほしい」という願いもあります。


そして、治療を行う際のリスクの話になった際、「何もしないというのでは見捨てることになるのでは」という罪悪感や罪責に苛まれ、悩まれます。


だからこそ、ここでお伝えしたいです。


『何もしない』は『見捨てる』ではない


ということなんです。


『痛いのが嫌な人なので、点滴とか無理はしなくていいです』

『何もしなくていいって言ってたので、自然な形で 

『本人の食べられるものだけ、好きなものだけを食べてもらえれば』

『苦しくないように酸素だけはしてほしい』


苦しくない、辛くない、そのための選択。

なにより、自分はどうしたいのか、何を優先したいのか、家族と話し合うことの大切さと、それをゆっくりと受け入れていける時間について感じることもあります。


ご家族と患者さんご本人とが、あらかじめ延命治療についての考えや希望を話してらっしゃると、この葛藤や痛みも少しだけ和らいでいる印象です。


もちろん、いざとなると揺らぐことはあります。

どれほど言葉を重ねてきても、「それでも、本人は望んでないとしても!」となることもあります。


ただ、患者さんに対して医療的な行為をする時、そこには体への負担が伴います。

そこをきちんと説明してくれる医師でなければ、期待ばかりが募るかも知れません。

そして、患者さんご本人にとって辛い時間になるかも知れません。


医療現場ではしばしば『侵襲』という言葉が使われます。

よくなると信じて行うことにも、負担はかかるのです。

時には,その治療の負荷に耐えられないこともあります。


薬にしろ、治療にしろ、検査にしろ、何かをする際にリスクがゼロとは決して言えません。


点滴をしたら助かると思われるかもしれませんが、体に受け入れる力がなければ、浮腫(むくみ)になります。

心臓にも負担がかかります。


胃ろうや鼻からのチューブによる栄養も、消化や吸収がうまくいかなければ、誤嚥性肺炎となります。


いまいる病院から別の病院に移るだけでも体力は消耗します。

何かをするということは、それだけでリスクがあります。


けれど、それに耐えることで共に過ごす時間が伸びる可能性もあります。


だから究極的には、どちらを選んだとしても、そこには正解も不正解もないのだと思います。


『後悔のない選択』というのは、本当に難しいものです。

覚悟も必要ですし、それもなかなかできるものではありません。

それでも、本人と言葉を交わし、医師や看護師と十分な話し合いを繰り返していくなかで、ご本人にもご家族にも寄り添えた選択ができたらと、その手伝いを医療者ができればと、そう願っています。