「あ、そうだ。うち、来週から有休消化入るから遊んでよ、かなめちゃん」
「おっと?」
最近お気に入りの生パスタ専門店のランチタイム。
厚めにスライスされたポルケッタ(ローストポーク)の旨みにうなっていたら、万里子さんから突然の告白を受けた。
「え、あれ? 万里子さん?」
「実は再来月から病院変えるのよ。うちのいる劇団がいまいい感じで、もう少しそっちに時間割きたくってさ」
「なるほど、うん、それはすごい納得」
万里子さんは看護師のかたわら、いわゆる小劇場の役者さんをしてる。
何度か観に行ったけど、ミステリー特化でしかも観客参加型のエンタメ脚本と演出だもの、好きな人はとことん好きになるし、実際めっちゃ熱烈なファンが多い。
それがいい感じというなら、そっちに比重を置きたくなるのもわかる。
「今いる病院、定時で帰れるのがほぼ唯一の魅力だったけど、上司が変わってから辞める人続出なわけね。そしたら、人手不足すぎて帰れないし、さらに休みは取りづらくなったし、で」
もちもちの生パスタに絡む豆乳クリームのまろさと百合根のホクホクさを楽しみつつ、相槌も打つ。
「そういえば、パワハラ系って言ってたもんね」
万里子さんは万里子さんで、春菊のソースを塗り込んだポルケッタをナイフで切り分け、口に運びつつ話を続ける。
「パワハラっていうか、うちの今の上司、パワー有り余ってる系なだけって可能性もあるけど、圧がすごい。ただ、そのパワーで自部署スタッフを他の部署からは守ってくれるんだけど」
いかんせん、自分が何もかも把握しておきたいタイプで干渉がすごいのだと。
「なんで私を通してないの、なんで私に最初につたえてないの、が挨拶がわりで聞くセリフとか辛すぎるよ、マジで。どこの束縛系彼女よ。いや、報連相は大事だけどさ!」
上司の過干渉に耐えられなくなったベテランからどんどん離れ、中途採用の仕事できる系の人も見限るのが早い。
そうなると当然現場は回らない。
私がかつていた現場もまさにそれだった。
上司が変わるまではそれなりにいい環境だったから尚のことしんどくなったのも同じ。
「夜勤明けに昼近くまで残業とか嫌すぎるし。さらに今度病院そのものも体制変えてくみたいでさ。なら、申請したら有休込みで十連休だってイケるとこにしたいかなって。しかも休みの数がさ、土日じゃなくて祝日も含めた年間数なの、最高じゃない?」
「上が変わるとね、うん、わかる。けど、その十連休アリって? え、パートじゃなく?」
「ね? うちもそれ聞いた時はびっくりした。その分かなりブラックなのかと思ったけど、まあまあ、あれよ、話聞く限り、下を知ってる身としては全然って感じ」
「上を見てもキリがないっていうけど、下を見てもキリがないしねぇ。『あそこよりマシ』って理論で頑張れちゃうのは確かに、うん」
思わず深くうなづいてしまった。
「夜勤明けを公休扱いにされて月5日しか普通の休みがなかったから」
「かなめちゃんからそれ聞いた時、うち、自分の耳を疑ったわ」
「今思うと、あれはなかった、ほんとなかった」
なお、一度ブラックに染まると、ホワイトな現場に逆に不安になるという事例が私の周囲でも発生している。
「今いるところがあまりに先生によくしてもらってて、ちょっと不安になるもの」
「あらあら、かなめちゃんったら! カレンダー通りの休みをもらって、さらに有休までついて不穏になったうちの友だちの話しよっか?」
「じゃあ、私からは、シフト通りの出勤でいいんだ、と呆然としてた友人の話もつけましょっか」
主に飲食系からの転職した友達のネタだけど。
週に一度以上休みがちゃんともらえんだ……とか、連休ってあるんだ……とか。
残業代ってちゃんと出るんだ、というか早く出勤した時も残業扱いなんだ……とか、定時ってほんとに定時なんだ……とか、「これでお給料、もらっていいの?」とか、もっと哀しきモンスターみたいな呟きも聞いた。
「切ない……いや、医療現場も、飲食と負けず劣らずのデフォルトがブラックなわけだけど、まあ、ただ、選ぶ診療科によってかなり忙しさの質が変わるか」
「求められるスキルも変わるし、働き方も意識も変わるのは、ほんと思う」
ポルケッタの程よい塩気としっとりとした肉質にクリームソースが寄り添うのを楽しみつつ、最後の一口を惜しみながらいただきつつ、看護という仕事そのものにも想いを馳せる。
圧倒的に救急向きの人もいれば、介護メインが向く人もいるし、広く浅くを求める人、マルチタスクが得意なひと不得意なひとでもかわる。
子供が好きだからこそ産科や小児科には行けない人もいるし、人の死に触れるのが辛いから眼科とか皮膚科とかを選ぶ人もいる。
「病院や診療所でも、個人病院の狭い環境が合う人もいれば、大きめの病棟が合う人もいるってしみじみ感じてて」
「確かに確かに! 病棟、外来、訪問、リハビリ、ってだけでもカラー違うわ」
万里子さんはコーヒーカップを手に、記憶をなぞるようにちょっとだけ首を傾げ、目を細めて笑う。
「ね、バリバリのマルチタスクとスピード感を求めるか、目に見える治療過程に燃えるか、じっくり付き合うか、他にもあるじゃない?」
「うん。自分がどういう特性持ってるか、把握しておけると早期離職も防げそうってね、思う」
「あとはさ、ホントこればっかりは現場単位だからさ。同じ診療科でも、なんなら同じ病院内でも、部署によって合う合わないはおっきく変わるわけだし、一概には言えないとこね」
「自分の特性にあったとこ選びたいし、自分の心が求める場所を選んでいけたらいいよねぇ」
さらには、正規で働く病棟のスタッフナース以外に、数ヶ月単位で現場が変わる応援ナースとか、夜勤専門のアルバイトとか、ツアーナースといったパターンもある。
「うちも、先に転職した同期から教えられて知ったけどさ、修学旅行とかについていくツアーナースとかちょっと憧れちゃったわ。毎週日本のどこかにいるのよ」
看護師という資格は、調べたら選択肢が結構あるんだなと知れて、知ることそのものが大切だという気づきも得た。
知識があれば、選択ができるのだ。
『知ってる』と『知らない』の間には、深い溝がある気もしてくる。
「ひとつのところがダメでも、そこで看護師人生終わりってわけじゃないって、転職してわかるわ」
「やってみてわかることの多さ、みたいな?」
「ね? いや、そもそもさ、診療科が違えば、全然求められるものが違うじゃん! 違う科に行ったら、経験年数関係なく新人だよ、役に立たないもん」
「わかる、わかりますとも、万里子さん」
遠い日の記憶が刺激される万里子さんの言葉に、思わず深く深く同意する。
「私、正直言って、自分のいる診療科以外のこと聞かれてもわかんない。内科の人間に外科のこと聞かれてもわかんない。さらに言うなら、呼吸器科にいる看護師に小児科のこととか聞かれてもわかんないし、産婦人科にいる看護師に脳外科とか認知症について聞かれてもわかんないわけで」
「まさに! 広く浅く内科をうたってる、その実老年期病棟なとこだと、急性期全般あやしい。心電図モニターの研修何回受けても波形読めないわ、全然身につかない」
「だよね、だよね!? 聴いた症状から検索はできるけど、医者じゃないから相談されても病名とかわかんないし、診断は看護師は法律的にも知識的にもできないし、まずはどの診療科のドクターに診てもらうかあたりをつけるくらいしかわかんないんだもの……」
「看護師ってだけで、相談されるけどさ、医者も看護師も知識って偏ってくから。それが身体を見るか、精神を見るかになったら、もっと乖離が激しくなるから!」
これはなかなかよそでは言えない、でも看護師あるあるじゃないかな。
ただ他の人に比べたら基礎知識はあるから、アプローチ方法はわかるとも言えるけど。
「あ、でも最近あれじゃない? チャットAIに聞く人のが増えてきたわ」
「意外とあってる場合もあるし、でも素っ頓狂なことになったりもするから、ホント難しいけど、診察代もバカにならないし、どこにかかればいいかの指針になるのはありがたいよねぇ」
「まあ、民間療法の玉石混交がすぎるけどさ」
店員さんが食べ終えた食器を下げて、代わりにココットに入ったジェラートを持ってきてくれる。
メレンゲがちょこんと乗ったいちごとミルクの2種盛りの可愛らしい食後のドルチェに目を奪われ、会話が止まる。
そのまま、解けないうちにとジェラートを口に運び、ひと呼吸。
「ただ、致命的に向いてない人間はいるって私は思ってるんですけど」
「いる、そもそも医療に携わっちゃいけない人間ってのはいる。本人無自覚だから怖いけど」
看護師の向き不向きは、自分の特性にプラスとして人と人の巡り合わせが大きかったりもするけれど。
だから、自分の生きた方、働き方、大切にしたい価値観も含めて選択していく自由もあるし、チャレンジしてみて見えることも多いけど。
ひとつやふたつ現場が合わなくても、自分はダメだと決めつけなくていいとも思ってるけど。
でも。
「倫理観だよね」
「倫理観だね。それを無くしたら看護師でいられないわ」
転職を打ち明けられてから思わぬ方向に転がった話だったけど、うん。
この根底の価値観を万里子さんと共有できるから、たぶんきっと職場が離れても一緒にいられるんだと思う。
そんなことを再認識しつつ、最後のコーヒーがなくなるまで、今度は万里子さんの有休消化期間でどこに行こうかで盛り上がった。
了
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