第2章の続きです。

 

⚠ 医療に疑問を持ちたくない方、    現在治療中の方は、ご不快になる可能性がございますので、           お読みにならないでください。

 

 

 

こちらの中で、近藤先生が書かれたことは

ご自身の生い立ち、ご自身も医師の父の接種によりワクチン被害者になりそうだったこと。

小学生のときは、外で遊ぶのが好きで「九九」も覚えられなかったが、父の病院に慶応大学からきていた産婦人科の若い医師が勉強を見てくれて、勉強と慶応が好きになり、慶応を目指したこと。

福沢諭吉先生の『福翁自伝』も読み、建学の精神「独立自尊=自分で考え、自分で判断し、自分の責任で決定する。自分で動く。これにしびれた。

患者さんにもいくつかの選択肢を伝え「自分で考え、最後は自分で選んでください」と伝えた。

海外のデーターを読み込んで、真実を解析したこと。

インフルエンザの高熱にアスピリンで熱を下げると脳症になる確率が高いことがわかった。ワクチンの副作用に驚き、医療の恩恵のみを受け、副作用を受けない方法を探したこと。

 

人生で大切なことはボート部で学んだ。

徒党をくまない。心の平静を保つ大きな秘訣です。

大学の勉強方法は、授業をしっかり聞く。授業の中で無理・矛盾をとらえ、必ず一つ質問する。そうすると、よく記憶に残るとのこと。

 

40年、ひとりで発言・行動し、結果もすべて自分の責任で引き受けてきました。

茶道部にも入り、「体の動かし方は合理的なほど美しく、しかも失敗しにくい」ということを学んだ。点滴や採決に役立った。

 

「負けず嫌い」学友相手でも絶対に譲れないことは譲れなかった。学生のスト。

世の厳しさを知った「学生結婚」と「嫁姑問題」

 

消去法で選んだ、医師、放射線科への道。

がん治療の改革を世に訴えるようになるなんて、夢にも思わなかった。

近藤先生って、まさに福沢諭吉先生の「建学の精神」で人生を貫いたのだと思います。ご自身で見つけた勉強方法により、「無理・矛盾」を見つけるのがうまくなってしまわれたのですね。(M)

 

社会学者の上野千鶴子先生、近藤先生がお亡くなりになった

とき、「頼りにしてたのに、どうすればいいの?」と

「ツイッター」を発信してくださいました。

 

近藤先生は死ぬまで現役。『どうせ死ぬなら自宅がいい』と

おっしゃっていたのに希望通りの亡くなり方でなく、はなはだ残念です。長年積もったストレスと過労だったのでしょう。

皆が注目するロールモデルとして、もう少し長生きしてほしかった。

近藤先生は、臨床医というよりも社会学者、歴史家の仕事に近い。

水俣病患者に寄り添い患者救済に生涯をささげた医師、原田正純さん。近藤先生と同じに、大きい敵と闘いました。

そして、周囲から冷遇されたのも似ています。

 

上野先生が近藤先生をご存じなのは、当事者研究のパイオニア

『がん患者学』を書かれた柳和子さんの主治医が近藤先生だったから。

 

アメリカでの乳がん治療―『アメリカで乳がんと生きる』松井真知子さん著 松井さんは、上野先生の古くからのご友人。

上野先生は、松井さんの原稿を読み、彼女の本に近藤先生との対談を収録するようお願いしたとのこと。彼女の体験を日本の医療現場から客観的に見てもらう為です。

上野先生と松井さんの年頭にあったのは、がんと「闘う」のでなく、「ともに生きる」というコンセプトでした。

彼女は、最後まで自分の自由を手放さないという生き方を貫きました。結局、彼女はそのまま日本に帰ることなく、外国で亡くなりました。

 

松井さんと上野先生が意識されていたのは、

『ニューヨークでがんと生きる』の著者千葉敦子さん。

日本の医療は信用できないと最先端の医療を求めてニューヨークへ。抗がん剤の副作用に苦しみながら、乳がんと闘い続けました。

上野先生と近藤先生が対談されたのには、1999年12月

対談においても、近藤先生は「中には治るがんもありますが、多くは老化現象だから、ドラスティックな治療はしないほうがいい」などと、過剰ながん治療に警鐘を鳴らしていた。

上野先生は、近藤先生の持論「検査」はしない方がいいということは知っていたが、お母さまを乳がんで亡くしていた為、検査はしていたとのこと。そして、乳がんに罹患されたとのこと。

 

医師は人柄で判断してはいけない。

人柄が良くても勉強していない医師。

東大、医療界、日本社会、いまだに男が中心の「ホモソーシャル」な組織文化の社会。

日本の医療界は、エビデンスは上がっているのに、エビデンスの合理性に従わず、不合理なことを続けている。

本当に怖い認知症のケア「早期発見・早期絶望」とも言われている。

上野先生と近藤先生の親は医師で、

育った環境も似ていて、家庭環境により

進路を選び、反骨の道を選んだということでも

似ているとのこと。

ジャンルは違えど、考え方、闘い方において、近藤先生と上野先生はまさしく同士だったとのこと。

 

がんは、治るがんと治らないがんに分かれる。

治らないがんでも、自分の一部として大切に共存を考えれば、

きっと長生きできる。近藤先生はそうおっしゃっていました。

 

私が上野先生を知ったのは短大の『教育原理』の時間に、

先生がご本を紹介してくださったからです。

上野先生のものごとをスパっと切るみたいな、そして自立した生き方に憧れました。今も、憧れています。

そんな上野先生が人を頼りになさるなんて・・

意外ですし、近藤先生を頼りに・・うれしかったです。

大好きな上野先生が近藤先生と面識があり、近藤先生を支持してくださってることもうれしかったです。

 

近藤先生は「乳がんの専門家」のように言われたこともありました。それは、「乳房温存」の記事を書いてから、大勢の女性に頼られたからです。近藤先生も真摯に向き合い、良いと思われる治療方法を提案し続けてくださいました。

新しいことを発見したら古い考えは捨て、必ず患者さんに教えてくださいました。

近藤先生を支持した女性たちの多くは、自分の意志を持ち、

自分がどうしたいか知っている、そして自分に何かいいかわかる進歩的な女性たちでした。日本以外の国、世界の動きを感じている女性たちも多かったようです。

乳がんの支援グループ「イデアフォー」の皆さんも、そのような方たちです。(現在は解散されています)

 

上野先生の近況におかれましては、「おひとりさまの老後」を勧めておきながら、最近ご結婚なさって?批判をあびたりされていますが、それはご本人の勝手です。批判にはあたりません。

親ががんで早く亡くなったとしても、同じ癌を子供が同じ性質のがんを引き継ぐと決まっているわけではありません。

「検査」はいけないとわかっていても、「検査」をしてしまうことは仕方がないし、ご自身で決めたことならそれでいいのです。

近藤先生は、方法を教えてくださり、選択は患者にまかせていました。

上野先生、思われた治療方法で長生きし、人生を隅々まで楽しんでくださいませ。