愛宕の石段で人が写らない写真が撮れた。

珍しい。何回も来ているけど初めて。

 

大都会の愛宕山。ここはいつでもたくさんの参拝者がこの「出世の石段」を

目指して集まる。

 

 

 

「さあ、行くよ」

 

気合の割には、登るのは左端。手摺をキープ。

運動不足のおばさんにはきつい急勾配。

抜かされていく私はとってもカッコ悪い。

 

あと10段のところでいつも何故かふと軽くなる。なんの魔法?

 

もしかして、私の人生あと10段かも。それならば、あとはなるべく楽にお願いします。

 

 

私はこの界隈が好きだ。

まわりの空気感がすっきりしている気がする。

こんなに高いタワービルに囲まれていても、淀んだ汚さが感じられない。

 

神谷町駅からの道すがら、息子が6年間通った男子校も見える。

通ったのは息子だったけれど、私も随分と一緒に成長させてもらった。

その時間は私にとっての大切な大切な思い出。

 

だからここは私の聖地。聖地って言った途端にありふれるけど。微妙~。

 

 

 

この石段を長い間、息子のことを思いながら登っていた。

あの頃の必死さは、私の今の勇気のようなものに変換された。

でも、今は自分のことを思いながら神様のいるところを目指す。

 

「神様、私は今階段のどこらへんですか?」

 

 

 

池の鯉にエサをあげながら。

我先にと寄ってくる積極的な一団の後ろで

 

「エサなんていらな~い」

 

という風情の群れがいる。いや、群れてさえいない。

 

ムキになって遠くへエサを放る。

 

「食べて!」

 

仕方なく小さく口を緩く開くその鯉が、まるで自分のようだといつも思う。

 

助けてもらいたいのに、お腹空いてんのに、もう疲れたのに。

余裕を装うその見栄と根性にため息が出る。

 

「まあ、そうやってやってればいいよ」

 

神の御遣いの池の鯉。

私の勝手な妄想はきっと不謹慎極まりないのだけど、こっちの心次第でどうにでも見えてしまう。

 

めんどくさいし、浅はかだよな。

てか、私って目に映るものによく自分を投影してるよな。

クセだよな。

こんなことでムキになるのはやめよう。

 

なんて思いながら聞こえてくる会話。

 

「どうする?このあと白金まで歩いてお茶する?六本木に出てもいいよ。」

ふと見れば20代モデル風のふたり。

 

熱心に祈っている東京男子図鑑に出てくるようなエリート風男子。

昼休みか~。近くのオフィスから寄ったんだな。

 

 

華やかな界隈にいて。

都会には都会の花の悩みがある。

 

目立つ色じゃなかったら埋もれてて見つけてもらえない。

低いとこに咲いてたら、高い踵の靴で簡単に踏みつけられちゃうし。

新種にならなきゃ驚くようなに高値はつかない。

 

「神様、もっと上に行けますように」

 

かつての若い私をまた彼らに重ねてみる。

モデルでもないし、エリートなんかじゃなかったけどね。

 

だけどどう?

生まれてから来た道で背負ったものは違うけど

神様から見れば、誰もがきっと等しく同じ花。

 

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もはや今の私の神様への願いはそこではない。

祈る。願う。その深い意味を知る。

でもまだ途中。きっと死ぬまで模索してる。

 

 

今日はシズちゃんがいない。と思っていたけど帰り際にゆったり登場。

君はほんとにこの神社がよく似合うね。またね、元気でいて。

 

 

 

                              シズちゃん。

                                愛宕神社にて。