那俄性哲也騎手についてのリクエストをいただきました。

 

他の方のリクエスト等もたまっているので順番が前後することになってしまいますが、先に紹介させていただきたいと思います。

 

 

 

それでは、Here we go (σ・∀・)σ ゴー!

 

 

 

 

那俄性哲也騎手には、父に騎手から調教師となった那俄性一人師、伯父に同じく騎手から調教師となった那俄性裕師、他に昭和40年代に短期間ながら騎乗のあった那俄性渡騎手や、同時期の厩務員等の名簿に記載のあった那俄性姓の方々など、競馬一家のバックボーンがありました。

 

 

当然のようにと言ってもいいと思いますが、騎手を目指します。

 

その時期としてはやや遅く、18歳のとき。

 

地方競馬全国協会第10期短期騎手候補生として、地方競馬騎手教養所へ入所しました。

 

 

ちなみに短期課程は、2年間の養成カリキュラムが通常のところ、一定の経験を持つ者(だいたいは厩舎関係者の子弟です)に対して9ヶ月ほどの養成カリキュラムに短縮して免許試験へ到達させるものです。

 

似たようなケースでは、現JRAジョッキーの岡田祥嗣騎手も高校進学後に進路変更して短期課程から騎手免許を取得していますね。

 

 

 

 

地方競馬全国協会会報第99号(昭和54年6月号)より。

 

 

 

 

 

 

 

 

同期入所の短期課程候補生は那俄性騎手の他に4名、長期課程候補生は20名います。

 

騎手としての在籍が各種資料で確認できなかった方については、氏名の一部や生年月日を黒塗りさせていただいていますが、いずれにせよ人数や競馬場の数に隔世の感があります。

 

 

そしてこれを見ると、那俄性騎手と同期入所の方がいらっしゃったんですね。

 

この方の氏名に一致する騎手の福山競馬場への在籍はなかったと考えられますので、入所前、在所中、あるいは免許試験合格後のいずれかで何らかの事情があって辞退されたのかもしれません。

 

 

なお、長期課程に目を向けると、なかなかすごいメンバーです。

 

現ホッカイドウ競馬調教師の山口竜一騎手は、宇都宮からホッカイドウ移籍後に、シーズンオフを活用して福山の那俄性哲也厩舎所属ということで騎乗したこともあります。

 

もちろん当人どうしだけの話ではないにしても、「同じ釜の飯」が繋げた縁なのだと思います。

 

 

 

 

(那俄性哲也厩舎のパスカリランナーに乗って勝利)

 

 

 

 

その他にも、船橋の張田京騎手、益田の田原真二騎手、荒尾の和田正美騎手は現地トップ級でしたし、当初は川崎だった高知の別府真司騎手(※ 短期課程で同じく川崎の伊原騎手も、高知へ移籍しています)をはじめ、現在は調教師をされている方々の名前もたくさんありますね。

 

 

 

 

さて、那俄性哲也騎手に話を戻しますと、厳しい教養所の生活も難なく(?)こなし、1980(昭和55)年4月26日からの昭和55年度第2回開催にてデビュー戦を迎えました。

 

 

 

 

 

 

 

初日は未勝利ながらもメインレースのB3で存在感を見せると、翌日のメインレース・サンケイスポーツ賞を5番人気のベストボーイで制し、初勝利を挙げました。

 

 

初騎乗初勝利もインパクトはありますが、表彰台付きのメインレースで初勝利というのはなかなかないことだと思います。

 

 

ちなみに当時は、初日のB3のようにメインレースでもレース名がない場合は単なる特別戦の位置付けでしかありませんでした。

 

それよりも賞金が高く設定され、さらに表彰台に上り表彰状や楯、副賞などを受け取ることができたレース名付き・表彰台付きの特別戦は、関係者のモチベーションが違っていたのです。

 

そのような舞台で伏兵を勝利に導いたのですから、ファンにも関係者にも顔と名前は大いに売れたと言えますし、のちのち呼ばれることとなる“重賞男”の片鱗も最初から見えていたと言えるでしょう。

 

 

 

こうなると次に期待されるのは重賞の初優勝ですが、当時はヤナイエース、テルステイツ、ウインホープと絶対王者が立て続けに現れた黄金期。

 

他馬にはなかなかチャンスが巡ってくることがありませんでした。

 





(つづく)






弘前と大鰐メインで、青森に行ってました。





前回記事から7年ぶり。

両店とも健在で、アップルパイもますます美味しくなっていました。









弘前で買った三毛猫パン。


かわいすぎやろー (*≧∀≦*)









大鰐で町営温泉に入ってから帰りの電車。


金魚ねぷたの提灯がいっぱい下がっていて、とっても風流でした☆



 

 
 

 

 

 

 

那俄性先生からいただいた大切なお宝のひとつ、ローゼンホーマ初重賞にして勝利時の最小着差であるハナ差決着となった、第16回ヤングチャンピオンの記念写真です。

 

 

 

 

デビューから連続のレコード勝ちを含め、全てワンサイドゲームの5戦5勝で臨んだ当レースは、単勝1.1倍の大本命に推されました。

 

 

ここも人気に応えて連勝を6に伸ばしたわけですが、レース成績はコチラ↓

 

 

 

あ、この成績は拙著から転載しました…と、さりげなく宣伝 ꉂꉂ(๑˃∀˂๑)

 

 

 

 

 

レース成績をご覧のとおり、ハナ+クビ差の大接戦となって、単勝にブチ込んだファンにとっては冷や汗ものだったことでしょう。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

鞍上の那俄性騎手も、めちゃんこ安堵の表情です。

 

 

 

こうなってくると、相手関係がすごく強化されたというわけでもないのに突如として薄氷を踏む勝利になっちゃったのは、ちょっと腑に落ちないところであります。

 

 

ここは、ビデオ「ローゼンホーマ 栄光の蹄跡」を観てヒントを探ってみることとします。

 

このビデオでは、初期のレースは最終第4コーナーからゴールまでのダイジェスト映像になっています。

 

 

 

 

まずは最終第4コーナー。

 

昭和画質なので粗いですが、ご容赦を m(_ _)m

 

 

 

 

 

 

 

先頭のローゼンホーマは、ニシフジパワアがインで食い下がっているため、1頭分空けて回っています。

 

ただし、これまでのレースでも外を捲って直線独走というレースがほとんどでしたし、スピードを生かすためにあえて大きく回っているのではないかと思います。

 

直後を追走するのがホクシンカースル、外を回って追い上げているのがエリモチカラ。

 

 

 

続いては直線入口。

 

 

 

 

 

 

 

カメラの角度の違いは考慮すべきとはいえ、わずかのうちに隊列がかなり伸びており、急激にペースアップしたことがうかがえます。

 

ホクシンカースルは鞍上の叱咤に応える余力はないのか、やや離され気味。

 

逆にニシフジパワアは、インベタの利を生かしてローゼンホーマの半馬身差ほどに詰め寄っています。

 

 

 

最後の直線。

 

 

 

 

 

 

 

だいたい残り100mぐらいの地点かな。

 

ニシフジパワアは字幕に重なって見えづらいですが、並びかけるには至っていません。

 

むしろエリモチカラが伸びて、ホクシンカースルを交わす態勢に入っています。

 

 

ローゼンホーマは内にササり気味なのでしょうか、那俄性騎手は右ムチを振るいながら左へ促す扶助をしているようにも見えます。

 

そのため、内のスペースは1.5頭分ぐらいに広くなっている感じです。

 

 

 

 

そしてこの後なんですが、編集上の理由があったのか、映像が途切れてしまっています… (꒪ω꒪;)

 

 

仕方ないのでゴール手前の写真で。

 

 

 

 

 

 

 

一気に差が詰まり、首の上げ下げになっています。

 

 

目につくのは、ホクシンカースルの番園騎手が手綱を引いて立ち上がっている点でしょう。

 

これは、外を並走していたエリモチカラが伸び勝って次の標的ローゼンホーマに併せようとしたけど、進路変更がちょっと強引だったものと推定されます。

 

エリモチカラの宮岡騎手の姿勢や左の手綱の雰囲気などからは、左側へ重心を移して斜行を食い止めようとしているように感じます。

 

 

一方で、最内から迫ったニシフジパワアにはほとんどスペースがありません。

 

ローゼンホーマが馬体を併せにいった可能性は否定できませんが、ゴールまでの完歩を考えると、やはりローゼンホーマは内にササっていたのではないかと思います。

 

 

内にササっていた説を唱える理由は、実は陣営がこのあとハミ吊りを試したこともあったりしたので、デビュー当初のローゼンホーマはハミ受けに難を抱えていたと思っているからです。

 

この辺は、また別途紹介したいと思います。

 

 

 

もう1枚、ゴール線の通過直後。

 

 

 

 

 

 

 

ローゼンホーマとエリモチカラは接触しながらのゴールインだったのでしょうか、両頭ともバランスを崩しているような気がします。

 

ホクシンカースルの番園騎手は再度追うことはできず、そのままゴールに入ろうとしています。

 


また、ニシフジパワアはゴチャゴチャに巻き込まれることなくスムーズにゴールしましたが、そこの部分を捉えると、イーブンで戦うと厳しいなあーという評価になるのかもしれません。

 

 

そして調べた限り、このレースにおいては戒告などを含めた騎手への処分は出ていませんでした。

 

 一応は、何事もなくレースは終わったということになりますね。

 




…と、長々書いてしまいましたが、昭和の地方競馬って情報量がめちゃくちゃ少なく、いろんな仮定や想像ができて面白いですね。

 

 

仮定や想像なんかしなくても、那俄性先生に直接お尋ねすれば良いだけなんですけどね! ( ´•ᴗ• ก) ポリポリ

 

 

 

 

 

 
自宅の一室を福山けいば関連アイテムで埋め尽くしておりまして。
 
 
まぁ世間では特別視されるようなものはないんですけど…というか、米国ケンタッキー州のケンタッキーホースパークには「Hall of Champions(王者の殿堂)」なんてのもあって、名乗るのもおこがましいですが…。
 
 
でもやっぱり、私の中ではその部屋は「Hall of Fame(栄誉の殿堂)」なんですよね。

 

王者ばかりでなくても、福山けいばを飾ってくれた人馬にまつわる記念品から競馬新聞、果てはノベルティに至るまで、どれもこれも殿堂入りの逸品です。

 
 
今もボチボチ仲間が加わってくれています。
 

 

 
 
 

 
 
 
 
ローゼンホーマが持ったままでレコードを更新した、デビュー戦の記念写真。
 
 
もう少しアップにしてみます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
いやもう本当に素晴らしい (*´ω`*)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
レコードの文字が燦然と輝いています。
 
2、3着馬はまだ何とか食らいついていますが、それより後ろはご覧のとおりはるか彼方ですからね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
胴がちょっと薄く、首差しは少し短くて細いように感じますので、まだまだ完成途上ですが、デビュー時点で古馬B級の馬なら余裕で凌駕しているぐらいの馬体だと思います。
 
 
 
ところでこの記念写真、どこかで目にした記憶が… (๑°ㅁ°๑)
 
 
 
 
 
 
そう、くろべえさんのブログにも出ていましたね!
 
上の記事の画像6枚目に写っています (*^^*)
 
 
 
 
8年前は高知競馬場に、今は私の手元に。
 
当時、福山競馬メモリアル「福山競馬場の想い出展」に出展協力なさった那俄性先生が、今度は私に譲ってくださったのです!!
 
 
 
もちろん先日の福山三冠のものもそうですし、他にもまだたくさん。
 
本当に感謝しかないです。
 
 
 
 
 
とにもかくにも、これらがあることで、ローゼンホーマに限ることなく福山けいばやアラブのことなど、今はもう忘却の彼方へ消え去ったものを時折呼び戻すことができると思っています。
 
 
もちろんそれは、断片的にしかならないです。
 
しかも最近はブログの更新ペースがめちゃんこ落ちているし… (꒪ω꒪;)
 
 
 
でも、断片的でも繋ぎ合わせていけばけっこう長持ちしそうですし、現役で動いているSNSであれば検索エンジンでも上の方に出やすいですからね。
 
誰かがたまたま覗いてくれたとしたら、その瞬間だけでも福山けいばがよみがえっているんだ、と思ってザ・自己満をこれからも続けていこうと思います  ٩(。•̀ω•́。)و オー!