今年はテレビドラマが不作(笑)なので、ここのところ映画をよく観ている。

今年観た中でも、先日鑑賞した「ウーマン・トーキング 私たちの選択」は、最も感動した映画作品。

鑑賞後の気持ちの揺れ動くまま、一度では飽き足らず、二度観に行ったほど。こういう経験は久しぶり。

 

 

この作品は、キリスト教メノナイト派の信徒によるボリビアの入植コロニーで実際に起こった性的暴行事件を下敷きに、カナダの作家ミリアム・トウズが書いた小説を映画化したもの。自給自足で生活するコロニーで、女性たちが夜中に家畜用の精神安定剤で眠らされたまま、繰り返しレイプされるという凄惨な事件。犠牲者は村に住むほとんどの女性で、中には幼い幼女まで含まれる。被害を訴える女性たちに、コロニーの男たちは、それを「悪魔の仕業」や「不信心故の妄想」さらには「作り話」だと否定し、無視し続けてきた。しかし、ある日、犯行に及んだ男が目撃・逮捕され、コロニーぐるみでの性的暴行の事実が明るみに出る。コロニーの男たちは、逮捕された犯人たちの保釈金を支払うため、総出で街へ出向き、男たちがコロニーを留守にする2日の間に、女たちは、犯人や男たちを赦すか、自分たちや子供たちの安全と権利を守るために男たちと闘うか、それとも、コロニーを捨てて去るか、選択を迫られ、女たちだけの緊迫した話し合いに臨む。

 

男たちを赦す、男たちと闘う、コロニーを去る、という三つの選択を巡って、女たちは投票を行うが、「闘う」と「去る」が同数となり、結論は女たちの意見を代表する三つの家族の話し合いに託される。

映画は、電灯もない、自然光のみの薄暗い大きな納屋の中で、同じように深刻な暴行被害の傷を抱えた女たちが互いに意見をぶつけ合い、説得を試み、あるいは、反発し、抑えきれない感情を吐露し、それでも、何とか解決策を模索しようとする、まさにその真剣な話し合い「トーキング」がほとんどの時間を占める。

しかし、観ていてまったく退屈することはない。

一瞬も目を離せない、激しく、切ない彼女たちの心情描写の衝突や錯綜は、その台詞、表情、しぐさ、沈黙までもすべてがスリリング。

 

話し合いを進めるのは、夢見がちな理想家で聡明なオーナ(ルーニー・マーラ)。彼女はレイプされ、妊娠している。オーナの妹サロメ(クレア・フォイ)は、自身だけでなく、幼い娘まで暴行の犠牲となり、男たちを赦せず、怒りに震えている。二人の母親、フリーゼン家の家長アガタ(ジュディス・アイヴィー)は信心深く、現実的で包容力がある。他方、ローウェン家のマリーケイ(ジェシー・バックリー)は、夫の暴力に耐え、痛みや悲しみを心に抑え込んで生きてきた。妹メジャル(ミシェル・マクラウド)は、暴行を受けて以来、鬱屈したチェーンスモーカーとなってしまった。二人の母親グレタ(シーラ・マッカーシー)は、二頭の飼い馬を愛する、優しいが、気の弱い性格。暴行時に歯を折られ、大きすぎる総入れ歯が痛々しい。話し合いには、十代の二人の少女も加わり、オーナの姪(自殺した姉の娘)のナイチャ(リサ・マクニール)が字の読めない女たちのために絵を描き、親友でマリーケイの娘オーチャ(ケイト・バレット)はこの映画の語り手となる。

教育を受けられず読み書きのできない女たちの話し合いを記録するため、オーナに思いを寄せる、知的で心の優しい男オーガスト(ベン・ウィショー)が書記を務める。彼の亡くなった母親は、女たちを抑圧する村の成り立ちを批判・抵抗し、村から追放された過去がある。

 

話し合いは、村に残って、村の成り立ちを変えたいと願うオーナ、闘って男たちに復讐したいサロメ、無力な自分たちと話し合いの意味に苛立ちを隠さないマリーケイの三人を中心に展開する。特に、信仰を巡る意見の対立と背反が痛ましい。男たちを赦さなければ天国に拒絶されるのではないか、男たちの支配や暴力、女たちの苦痛を容認するような信仰は真の救済と言えるのか、男たちの暴力に暴力で抵抗することは、信仰の核心である平和主義を侵すことになるのではないか。

女たちの迷いや葛藤、軋轢は、観ている自分の気持ちにもぐいぐいと迫ってきて、心を大きく揺り動かす。

特に感動的だったのは、自分の娘が受けた暴力にサロメが怒りを爆発させるシーン、その悲痛な訴えに観ていて涙がぼろぼろ流れる。そして、斜に構えていたマリーケイが自分の無力さへの指摘に、それまで抑えていた感情を一気に吐き出し、母グレタが自分が何もしてやれなかったことをマリーケイに心から謝るシーン。ここでも涙を抑えきれない。また、女たちが最終的に村を出ることを決心し、話し合いの終わりで、書記のオーガストに、あなたの母親もあなたを誇りに思っている、と礼を言うシーン。オーガストが涙をこらえられず、観ているこちらも目頭がじーんと熱くなる。

 

この作品の素晴らしいのは、そのリアリティー。実話をベースにはしているけど、ストーリーもプロットも小説の原作者の創作、しかし、実際にあった話かどうかは、リアリティーとはまったく関係ない。

女性たちの置かれた過酷な状況、身体的にも精神的にも深い傷を抱えた彼女たちの心情、そして彼女たちお互いの人格的な関係、それらが実話の特殊なケースではなく、普遍的なメッセージ性をコアとしている、それがこの圧倒的なリアリティーを生み出している。

印象的なのは、話し合いが単に理性のみで決着するのではなく、強い共感に基づく感情のやり取りが深い意味を持っていること。また、この話し合いが、権力や支配、あるいは多数決といったメカニズムとは無縁の、「民主主義」の原点を思わせる、対等な人間と人間の真摯な結びつきによっていること。

女性たちは、意見や立場は違っても、それぞれの痛みや悲しみ、お互いの思いを分かち合うことができる。それが、最後には彼女たちを連帯させ、新たな歩みをともにすることにつながる。

男が振り回す「正義」や「理論」は、ときに単なる欲望や暴力の正当化にしかならない。映画の中で、子供たちの教育のためには、ということでオーガストが引用するコールリッジの詩にあるように、競争や論争ではなく、真に大切なのは思いやりと愛情なのだ。

そして、この映画で重要なのは、「信仰」の意義。自分はキリスト教は信じないし、邪教だと思ってはいるけど、この映画に登場する女性たちの信仰への思いには感情移入できる。自分が思ったのは、彼女たちの決断は、やみくもに信仰に従う、ことではなく、信仰が自分たちを支え、信仰が自分たちの心に寄り添ってくれる、そういう道を選んだ、ということではないか。

 

それと、この映画は、納屋の中での話し合いシーンが中心だけど、画像が狭苦しいという閉塞感はまったくない。女性たちの苦痛や悲しみとはうらはらに、生まれ育った村の自然や風景が美しく、スケールの大きな映像で表現され、村での素朴な日々の暮らしの描写が繊細で奥行きのあるノスタルジーを生み出す。

最後のシーン、女性たちが馬車を連ねて、村を旅立つシーンは、高みからの画面がやがて、はるか行く手の地平線へ向かって伸びる道を示し、まるで壮大な歴史ドラマのエンディングのよう。故郷を去る女性たちの悲しみと未来への希望と不安、交錯する複雑な思いを生き生きと伝えて、強い余韻に満ちた感動のラストシーンだった。

 

感想としては、あまりうまく感動を伝えられないのがもどかしいけど、ここ数年で観た映画の中でも最高のもののひとつ。

原作者ミリアム・トウズ、制作・キャストのフランシス・マクドーマンド、脚本・監督のサラ・ポーリー、主演のルーニー・マーラはじめとする女優陣、みな素晴らしい仕事で、女性たちの創造力と絆に強く心を打たれた。