今年最初に観た映画は、映画界の大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインの数十年にわたる女優やスタッフに対する性的暴行について取材し、その告発記事を書いたニューヨーク・タイムズ紙の二人の女性記者を描いた「SHE SAID/シー・セッド その名を暴け」。

 

実話に基づく作品は、普段あまりこれといってインパクトの強い作品がないと思っているんだけど、この作品はかなり感動的だった。

実話映画が好きではないのは、ストーリーをドラマチックにするため、実在の人物の人間描写が非常に作為的、ご都合主義的に感じてしまうことが多いから。

でも、この作品には、そんな印象はまったくない。

何故か。それは、この映画の作り手が、作品を娯楽=エンタテインメントとして扱っていないから、だと思う。

だから、一般観客の映画レビューのコメントでは、ストーリーに盛り上がりがなく、面白みに欠ける、途中で眠くなる、とか、的外れなものが結構多い。

 

自分は、映画を「娯楽」だとは思っていない。

いや、正しくは「娯楽」の意味をはき違えている人があまりに多いと思う。

映画は、日常からの離脱、非日常の体験、そう言ってしまえば、シンプルなんだけど、もっと突っ込んで考えるなら、世間一般が普段当たり前だと思っていること、世界のあり方、秩序、社会規範、道徳、人生観、それら諸々をすべて解体して、常識に凝り固まってしまった「自分」、紋切り型の言葉にがんじがらめになっている「自分」からの解放、心を自由にすること、そういうことではないか。

それは、言葉の本当の意味で「面白い」ことだと思っている。

それが作品としてどれだけ上手く出来ているか、そういう意味では、この作品はかなり上出来だと思う。

 

映画のストーリーや内容について、詳細にここには書かない。

そのかわり、印象に残ったことを少しだけ。

 

告発というのは、当事者が事実を証言すればよいのだから、本来は簡単なことではないか、と当事者ではない一般人は安易に考えてしまう。しかし、その証言を阻む、心理的な要因、社会的な要因、経済的な要因、法律的な要因など、様々な障害があって、それらをすべて克服するのはちっとも容易なことではない。

そして、加害者や権力者は巧みにそれらの要因を駆使して、被害者の口を封じる構造的な環境を強固に作り上げることができる。

この物語は、単に映画業界の一プロデューサー、社会全体から見れば特殊な業界の、限られた範囲のスキャンダルを扱ったものではなく、そんな矮小化されたテーマではない。

男性中心に構築された社会体制がいかに女性を抑圧し、その言葉を封じてきたか、という象徴的なメッセージになっているのだ。

だから、映画のタイトルは、「SHE SIAD」、彼女は発言した、となっている。邦題の「その名を暴け」は、観客の意識のミスリードに繋がりかねないお粗末な印象が強い。

 

もうひとつ、この映画を観て感動したのは、最終的にオンレコで証言を記事にすることに同意した被害者たちの勇気、強い意志。彼女たちの決断シーンは、観ていて思わず目頭が熱くなる思いがした。

これ、主人公の二人の記者、ミーガン・トゥーイー(キャリー・マリガン)とジョディ・カンター(ゾーイ・カザン)、彼女たちの使命感、困難に満ちた取材プロセスで彼女たちを突き動かしているのは、決して「正義」などという、抽象的で陳腐な観念ではない。

彼女たちの取材の過程を通して出会った、実際の一人ひとりの被害者たち、その苦悩や無念、悲しみ、憤りに対する、心からの「共感」、感情移入、連帯、同じ女性として、単なる取材対象として対応するのではなく、主観的にも相手と同一化するような心的態度。

報道記者は取材対象に対して客観的でなければいけない、という分かったような常識論ではなく、最終的な記事を発表する際には適正なプロセスを経なければならないにせよ、取材・報道の真のエネルギー源は、そんな手続的「常識論」や「正義」を超越したところにある。

社会を変える、それは「正義」によるのではない。

観念的な「正義」では何も変わらない。

目の前にいる個別具体的な人間、人間としての人間に対する、心のつながり、思いの共有、社会を変えるのはその力を置いて他にはない。

この映画の主人公や告発者たちが振り絞る勇気、変革に伴う困難を克服し、権力に負けないレジスタンスの力、そして、それがその後、#MeTooキャンペーンという大きなうねりとなって、社会を変えていく、その根源には、女性ならではの(観念的な「正義」にばかり依拠しようとする男性にはない)、そういう「心」の働きがあることに深い感銘を受けた。