ここのところ映画の感想記事が続いたけど、この間、並行して読んでいた小説があって、これがとても感動的な作品だった。小説の感想記事ということでは、昨年の「三つ編み」以来になるけど、是非書いておきたいと思ったので。

読んだのは、トルコの作家エリフ・シャファクの2019年の作品「レイラの最後の10分38秒」。

 

 

物語のあらすじは、自分のつたない文章ではきちんと伝わらないと思うので、いつものとおり、訳者あとがきを参照し、一部コピペの抜粋で。

幕あけは、1990年のトルコ。主人公のレイラはイスタンブールで暮らす娼婦で、冬の日の明け方、死体となって路地裏のゴミ容器に棄てられている。心臓の鼓動が止まり、呼吸も途絶えたのに、意識がまだ残っている。(最近の医学誌に発表された論文では、臨床死後に生命維持装置を切った後も10分38秒間、生者の熟睡中と同様の脳波を発し続けた事例が報告されている)

死後のその状況のなか、レイラは塩の肌触りと味とともに、1947年、この世に生まれ落ちた日のことを思い出す。それから1分が経つごとに、記憶と結びついた味や匂い―レモンと砂糖、スイカ、カルダモン・コーヒー、シングルモルト・ウィスキー等々―が、レイラの生涯の忘れがたい出来事を次々と、だが気まぐれな順序で呼び起こしていく。トルコ東部の地方都市ヴァンで、二人の妻を持つ厳格なイスラム教徒の父のもと、従順で貞節な娘でいることの反発を募らせて過ごした少女時代。叔父(父の弟)による性的虐待。止むにやまれず家出し、騙されて身売りされた果てに行き着いた、イスタンブールの娼館での生活。そこで出会った最愛の人ディー・アリとの束の間の幸福で甘美な日々。不幸な事件でその夫を失って、再び娼婦となり、運命に翻弄され、娼婦連続殺人の被害者として死ぬことになった顛末を。

レイラの回想には、生前に固い絆を育み、死後も忠実な友であり続ける5人も姿を見せる。地方農家の息子だったナランは、幾度もの手術に耐えて女性の姿を手に入れたトランスジェンダー。故郷ヴァンでのレイラの幼なじみのシナンは、秀才だがひどく内気な男で、真面目な銀行員生活の裏でひそかにレイラたちと過ごすことに癒やしを感じている。小人症のハンディキャップを負うザイナブは、レバノン出身の敬虔なイスラム教徒で、占いも得意、娼館の雑用係としてレイラと生活をともにする。夫の暴力に耐えかねてトルコ南東部の町から逃げてきたヒュメイラは、婚家からの追跡に怯えながら、容姿を変えてナイトクラブの歌手をしている。若いソマリア人のジャメーラは、政情不安の故国からトルコに逃れてくる際、人身売買で娼婦にされ、レイラとは同じ娼婦として人種の壁を越え親しくなる。

その5人が、物語の後半では、レイラの死後、亡き友への思いにかられ、レイラの遺体の不本意な埋葬に納得できず、埋葬のやり直しのために力を合わせて必死に奔走する。

物語の冒頭から、既に主人公が死んでいる、という衝撃の展開。しかし、まさに走馬灯のように脳裏を駆け巡るレイラの生涯の物語とその後日譚は、彼女と彼女を取り巻く人々への深い感情移入とともに、強いインパクトと長い余韻を残す。

レイラは、世間の目から見れば、社会の底辺に生きる、落伍者ないしははみ出し者。レイラの夫となったデイー・アリや5人の友も同様、一般社会から抑圧され、疎外され、孤立させられたマイノリティーや難民たち。

しかし、彼らの人生は、無意味で無価値なものではない。むしろ、レイラがそうであるように、皆聡明で、世の中が見えており、そして、他者に対する思いやりや共感、優しさ、誠実さ、自分自身に対しても正直で、そこには一切の欺瞞や嘘がない。

それなのに、暴力や差別、搾取、弾圧等々、世の中から非情な扱いを受け、惨めで悔しい思いを味あわせられ続け、ストレスと閉塞感に満ちた苦しい生活を余儀なくされている。

いや、本当は、それなのに、ではなく、その故に、なのかもしれない。

不合理、不条理に満ちたこの世界で、レイラたちのような真っ当な人間は、「普通の人生」を送ることができない。

レイラたちを救うのは、彼女たちのお互いの支え合い、助け合い、孤独や孤立を共有し、共感しあえる、本当の優しさを持つ者同士の間にだけ初めて芽生える友情。それが、レイラたちの生き方を真の価値あるものにしている。

 

この小説を読んで、そのストーリーに、レイラたちの生き方の救済や希望を見出し、それに感動する。いや、それはそれで確かなのだけど、果たしてそれでいいのだろうか。

彼らのレジリエンスを称賛するだけでは、社会の暴力や差別を容認・黙認することになる。

この物語では、レイラたちを抑圧、迫害し続けた、酷薄な親族、旧社会の保守勢力、高圧的な政治権力や官憲、差別的な一般民衆、そして、レイラを殺害した犯人たち等々、小説の中では誰一人として非道な行いの報いを受けない。そういう意味では、暴力や差別、宗教や社会環境の因習的な問題、それらの告発ももちろん必要だし、世の中を変えていかなければいけない、という意識も重要。

だけど、本当は、それだけでもない。

大切なのは、レイラたちの境遇や生き方を他人事だと思っていていいのか、という問い。

それは、翻って、社会の底辺だと見られているレイラたち、読者の我々は、果たしてそんなレイラたちよりも真っ当な生き方をしていると言えるのだろうか。

もし、我々の生活や人生が、レイラたちのそれよりも、世間に許容され、社会的地位を認められ、経済的にも精神的にも、安定して穏やかで「幸福」だとしたら、そこには、見過ごしてはいけない大きな欺瞞、ごまかしがあるのではないか。要は、我々が、聡明でもなく、優しくもなく、誠実でもなく、自分自身に嘘をついて生きてきた、その故のフェイクの「幸福」なのではないか。

友情にしたってそう。我々には、果たしてレイラたちのような真の「友」がいるか。心を開き、孤独を共有し、共感できる、真摯な人間関係なんてどこにあるのか。絵に描いた餅のような、綺麗ごとだけの「友情」、我々が普段目にし、手にしているのは、そんな空しい幻想でしかないのではないか。

 

この悲しく、惨めで、切なく、そして、美しく、胸が詰まりそうになる、レイラたちの物語は、遠い異国の、読んで感動するだけの単なる「いい話」、教養のための読み物なんかではなく、自分自身の生き方に対する、強烈な問いかけ、アンチテーゼになっているような思いがして、読後、何度も深くため息をつかずにはいられなかった。

 

あと、これは余談になるかもしれないけれど、小説の舞台となっている大都市イスタンブール。その混沌とした、多面的で無秩序、暴力や搾取も横行するような世界にもかかわらず、レイラたちのようなマイノリティーや難民でもそこでは自分を偽らずに生きていくことができる。そういう意味では、レイラたちの出身地である田舎や地方の素朴で自然に囲まれた昔ながらの平穏な生活、などという牧歌的なイメージが、実は、そこに暮らす人間集団については、非常に非寛容で少数者・弱者を圧殺する、恐ろしい虚像にも思えて、とても印象的だった。