最近観た映画の感想のその3は、自分としては初めての鑑賞となる中国本土製作のヒューマンドラマ作品「シスター 夏のわかれ道」という映画。

 

うーん、自分は女性が主人公の映画が好きで(男性主人公の映画が嫌いで(笑))、フェミニズム映画とかもかなり好んで観ているんだけど、結論から言うと、この作品は、ちょっと、というか、かなりいただけない、またまた残念な映画。

一見、中国社会での女性の置かれた状況、因習的なジェンダー観、閉塞的な家族観など、現状の文化や制度に対する問題提起や告発を意図したようにも思える作品なんだけど、結果として、女性に対する抑圧を助長するビジョンしか提示できていない。

 

興行的には、あまり世間一般に観られていない作品だと思うので、簡単にあらすじだけ、例によって、公式サイトからのコピペで。

看護師として働くアン・ランは、医者になるために北京の大学院進学を目指していた。ある日、疎遠だった両親を交通事故で失い、見知らぬ6歳の弟・ズーハンが突然現れる。望まれなかった娘として、早くから親元を離れて自立してきたアン・ラン。一方で待望の長男として愛情を受けて育ってきたズーハン。姉であることを理由に親戚から養育を押し付けられるが、アン・ランは弟を養子に出すと宣言する。養子先が見つかるまで仕方なく面倒をみることになり、両親の死すら理解できずワガママばかりの弟に振り回される毎日。しかし、幼い弟を思いやる気持ちが少しずつ芽生え、アン・ランの固い決意が揺らぎ始める…。葛藤しながらも踏み出した未来への一歩とは・・・

 

確かに映画の前半くらいまでは、リアリズムをベースにした真摯な作風が感じられて、印象は悪くなかった。

一家の唯一の女性である主人公アン・ランに家族の「ケア」の責任が当然のこととして強要される。しかも、アン・ランは、国家の一人っ子政策による社会の歪みにより、女子であるが故に両親から望まれない子供として、愛情に飢えたまま、一人で生きてこざるを得なかった境遇。

その一方で、無邪気だけれど、甘やかされて育てられ、我儘で生意気な弟、そのやっかいな面倒を見ることの苦痛がしっかりクローズアップされ、アン・ランに感情移入して観ることができていた。

 

しかし、アン・ランが弟ズーハンに親密な気持ちを抱くようになり、その故に葛藤が高まる後半の展開は、ある意味、ヒューマンドラマあるある、というか、あえて言えば、お涙頂戴の人情噺、家族愛物語というファンタジーに堕してしまった。

端的に言えば、「ビジョン」のリアリティーを捨てて、「ストーリー」をでっち上げることで、観客の歓心を惹くことに終始、いや、この作品の作り手には本当はそんな意図はない、と思いたいんだけど、出来上がって上映された作品だけを観れば、そう思わざるを得ない。

リアリティーの欠如という意味では、例えば、それまでお互いに会ったこともなかった姉弟なのに、唯一の家族というだけで、反抗的だった弟が次第に姉を慕っていく、という展開自体が非常に作為的。もし、そういうことがあるなら、それは弟ズーハンの、無意識ではあっても一種の「戦術」という描写になるべき。

6歳という年齢は、既に純粋で無垢とは言えない年齢。まして、男子というジェンダーに素直に順応しているこの弟なら、その無邪気さの背後には、エゴ、甘え、ずるさ、罪深い強かさがある。その喜怒哀楽をまるで天使のように描くのは、明らかに「嘘」。

まして、姉の気持ちを忖度し、同じ幼稚園の女児に手伝ってもらってまで、自ら養子を申し出る、などということは100%あり得ない展開。これは、要は、弟の側にも、ただ姉に依存し甘えているだけではない、姉の愛情を受けるに値する価値がある、ということをあこぎにアピールし、主人公アン・ランの葛藤を正当化する意図があるとしか思えない。

また、アン・ランの弟への思いの背後には、自分が親から受けられなかった愛、それを今度は自分が弟に対する仕打ちとして、愛を拒否している、という後ろめたさにつなげるような、回想シーンの表現が多いけど、これもリアリティー無視のあざとい演出。ここまで親から離れ、意固地なまでに自立して生きてきた主人公であれば、今さら「親に認めてもらいたかった」などという心情が沸くのは不自然。

考えてみれば簡単に分かることだけど、子供はそんなに親のことなど考えていない。まして、兄弟姉妹など他人の始まり、ぐらいにしか思っていない、古今、洋の東西を問わず、それが現実。

伝統的な家族観の幻想を打ち破ることができなければ、そこで描かれた世界は所詮ファンタジーでしかない。

 

そして、この映画で最もいただけないのは、何と言ってもエンディング。

進学のために飛行機で北京へ旅立つ当日(というのも切迫感・選択強要演出のための非常にわざとらしい設定)、弟の養親から弟と二度と面会しないよう誓約を求められた主人公が、躊躇呻吟の挙句、感情を抑えきれなくなり、強引に弟を連れて養親の家を飛び出し(ダスティン・ホフマンの「卒業」か(笑))、進学を諦めて、最後は弟と抱き合って泣くシーン。

いや、結論が甘いとか、そういうことを言いたいんじゃない。

主人公の涙は、弟への愛情や感動の涙とはまったく無縁で、自分の無力さに対する悔し涙、自分の未来を失った絶望の涙でなければいけない。

逆に、弟にはここで泣く意味はない。姉と弟が抱きしめ合うのも、二人の家族愛ではなく、パニック状態の混乱で訳も分からず、感情をぶつけられる相手が他にいないから、無意味に不条理にそうしている、そういう描き方をしなければダメなのに、何だか心温まる穏やかな描写のようになってしまっている。

これで良かった、わけがない。

これから二人で暮らしていくのなら、弟もやがて成長し、無責任な親族たちと同じく無責任な「男」になる。自分を養育してくれた姉の苦労や犠牲に感謝し、姉の夢や希望を支えるために、今度は自分が姉のために犠牲になる、などということはおよそ考えられない。仮にそういうことがあったとしても、その時点では既に手遅れ。

また、主人公に弟を押し付けた親族たちには、何の葛藤も後悔も罪悪感もないし、それが将来描かれることもない。死んでしまったからどうしようもないとは言え、本来は主人公の両親の葛藤や後悔や罪悪感が、主人公の苦悩を受け止める形で描かれなければならなかった。

そういう意味では、この映画のエンディングは徹底的にバッド・エンド。

しかし、そう描かれておらず、そう見えないのが最大の問題点。

 

この映画、ネットの映画レビューのサイトとかの評価を見ると、☆5とか☆4とか、高い評価をつけているのは、たいてい男性(と思しき)レビュワーばかり。

この作品の男性受けが良い、というのは、男性中心の常識的な世間一般の世界観にとって、多少のきまり悪さ、ちくちく針の痛みのようなものを感じたとしても、それがむしろ罪滅ぼしのデトックスとなり、最終的にはほっと安心の、居心地の良い物語、異世界を垣間見て、少し自分が清められた気分にさせるファンタジーになっている、ということ。

つまり、日常に強い衝撃を与えるリアリティーの重みが決定的に欠けている、ということ。

 

まあ、結局のところ、中国本土の映画(中国最大の国営映画会社の配給)で、当然政府当局の検閲を通っているのだから、権力者にとっても都合の悪いことは何一つ描かれていない。一人っ子政策の批判とか言っても、一人っ子政策自体がもはや否定されているので、政策の歪みによる女子出生率の低さとか、急速な少子高齢化とか、国家の課題にとっては、こういう映画がむしろ好都合。

そう考えると、中国本土の映画作品は、どうしても限界があり、本音ベースでの作り手の意図とは別に、その内容を手放しで信頼するのは困難だな、とこの作品を観て、あらためて感じた。