感動的、というありきたりの言い方じゃなく、自分の安穏とした日常感覚をぐらぐら揺り動かされる、というか、感情移入の切なく苦い余韻がずっと残る、でも、何故かその感覚を呼び戻して、もう一度映画をリピートしたくなる、というか、そんな印象深い映画を観た。

 

「17歳の瞳に映る世界」という邦題の、現代米国の女子高生の妊娠中絶を巡る物語。

原題は、「Never Rarely Sometimes Always (決してない/めったにない/時々/いつも)」という作品なのだけど、この言葉の意味は、クライマックスのシーンで初めて分かる。

でも、邦題もなかなかよい。映画のテーマによくマッチしている。

 

 

作品全体のトーンは、背景の説明的な描写や直接的な心情吐露の台詞をそぎ落として、寡黙で淡々としたドキュメンタリー・タッチの映像表現になっていて、それでいて登場人物の心理や人間関係が観る者にはっきりと伝わってくる、鮮やかで強いインパクトに満ちている。

観客の想像力を刺激し、作品世界、すなわち主人公=17歳の瞳に映る世界への深い没入感を引き起こす。

 

冒頭から印象的なシーンが続く。

高校の文化祭のステージで一人ギターの弾き語りをする主人公オータム(シドニー・フラニガン)。その物悲しいメロディーと歌詞は、男の思いのまま、言いなりになってしまう、弱い女性の嘆きと憤りを訴えるもの。歌唱中ふいに客席の男子高校生から性的侮蔑のヤジを飛ばされる。演奏後に学食で家族と食事をするシーン。娘を褒めて、とオータムの母親から促されても、不機嫌な顔をしているやつは褒められないと拒絶する父親。それを見返すオータムの冷めきった眼差し。黙って席を立ったオータムは、遠くの席からいやらしい目つきで彼女にサインを送っていた男子生徒にグラスの水をぶっかけて食堂を出ていく。

台詞も少ないこの短いシーンだけでも、オータムがどんな家庭環境でどんな学生生活を送っているのかが、緊張感や息苦しさとともにはっきりと伝わる。

家のリビングでの描写でも、オータムと父親との折り合いの悪さ、会話にとげがあり、彼が実父ではないことを暗示して、オータムをさげすむ態度のうちにも、彼女をどこか性的な意識で見ているような不気味さを感じさせる。

このあたりも、観る側のイマジネーションに効果的に働きかける巧みな演出だと思う。

 

誰にも内緒で地元の危機妊娠センターという施設を訪れたオータムは、検査の結果、自分が妊娠していることを知る。センターの受付の女性の一見親切そうな対応にもかかわらず、エコーで胎児の心音を聞かされたり、妊娠中絶を厳しく否定するビデオを見せられたり、里親制度を強く勧められたり、州法により両親の承諾なしには中絶できないことを告げられ、ここでもオータムは追い詰められることになる。

インターネットで中絶方法を調べ、ビタミン剤を大量に飲んで、自分の腹を手で叩き続けるオータムの目からあふれてくる涙。ここまで感情をほとんど表すことのなかった彼女の姿、孤独と不安、辛さと惨めさと罪悪感がないまぜになったような、その痛ましさに胸をしめつけらる。

 

相談できる人もなく、孤立するオータムだが、スーパーマーケットで一緒にバイトをしている従姉妹のスカイラー(タリア・ライダー)だけが、オータムの様子を気遣ってくれる。

無愛想で口数も少なく内向的なオータムとは対照的に、スカイラーは男受けのする美貌と派手な外見で行動的な性格。ただ、抑圧され鬱屈した境遇にあるのは同じ。スーパーのレジでは男にナンパされ、レジの仕事を終え、売上の現金を数えて事務所のカウンターの小窓越しに手渡すその手を上司にキスされ頬ずりされても、無表情で黙ってされるがままにしている。

そんなスカイラーがオータムの様子のおかしいのに気づき、トイレで嘔吐しているオータムを見て彼女の妊娠を知る。迷いなく行動を起こすスカイラー。レジの紙幣を監視カメラも無視して堂々とバッグに突っ込み、オータムに寄り添って自分の家で一晩を過ごした後、二人で街を出る。長距離バスに乗り、自分の意志で中絶ができるニューヨークへ向かう。

なんていい子なんだろう。淡々とした描写だけどオータムの身を真剣に思うスカイラーの気持ちが痛いほど伝わる。他方で、スカイラーの親身の行動にも、感謝や喜びの感情を示さないオータムの態度が、これまで誰も信用できず、孤独にさいなまされきた彼女の心情をリアルに表している。

 

ニューヨークに着いた二人は、寒い雨の中、喧噪と混沌の大都会をさまよい歩くことになる。

産婦人科を受診したところ、再検査で妊娠18週であることが分かり、日帰りの中絶施術はできないと告げられる。地元の危機妊娠センターで妊娠10週と言われたのは嘘だったのだ。

別の施術のできる病院を紹介されるが、受診は翌日まで待たなければならない。宿泊を予定していなかった二人はホテル代もなく、地下鉄の車内や待合室のロビーやカフェで一夜を過ごす。行く当てのない不安と憂鬱。二人の身に何か良くないことが起こりはしないか、と観ていていたたまれない、息苦しい気持ちになる。

 

翌日訪れた中絶専門の産婦人科で、オータムは施術の内容について説明を受ける。

施術には事前の処置を含め二日を要する。中絶の意志を確認され、問診を受けるオータム。ここで、この映画の原題の意味が分かる。問診のシーンは省略されて次の展開になるのかと思っていたら、質問一つ一つが丁寧に描写されて驚く。この質問がこの映画の肝なのだ。

既往症に関する質問の後に、これまでの性行為に関する質問が続く。相手が避妊を拒絶したことがあるか、避妊を妨害されたことがあるか、等々。これらの質問に「Never Rarely Sometimes Always (決してない/めったにない/時々/いつも)」の4択で答えなければいけないのだ。次第に答えるのが辛くなってくるオータム。そして遂に、性行為で暴力を受けたことがあるか、の質問の答えに詰まってしまう。みるみるうちに彼女の目が涙でうるんできて、セックスを強要されたことがあるか、という質問にもかろうじて小さくうなずくことしかできない。

でも、質問したカウンセラーの女性は、とても優しく、事前の処置の際にはオータムの手をずっと握っていてくれる。

観ていて目頭が熱くなるのを止められない、とても感動的なシーン。

 

その後、病院の外で待っていたスカイラーのもとに戻るが、施術の予約金で相当の金額を費やしてしまったオータムは、地下鉄の代金も払えない。帰りのバス代さえなくなってしまい。スカイラーの責めるような口振りにいらだちから感情をぶつけてしまうオータム。憤然としてその場から去ってしまうスカイラーだったが、しばらくしてオータムが後を追い、女子トイレにいたスカイラーを見つけると、彼女は黙ってオータムの目のくまをメイクで直し、リップを塗ってくれる。さりげなく、健気な二人の絆に、じんわりと心が熱くなる。

 

往きのバスの中で出会い、スカイラーに誘いをかけてきた青年とアドレスを交換していたので彼を呼び出す。三人でボウリングとカラオケで時間を潰す間、青年はずっとスカイラーに体をすり寄せてくる。平然とした素振りでそれを受け入れるスカイラーは、別れ際に青年に帰りのバス代を貸してほしいと頼む。

青年はATMへ一緒に来てほしいとスカイラーを連れ出し、オータムは一人取り残される。時間が経っても帰ってこないスカイラーが心配になり、焦ってあたりを探し回るオータム。やっと二人を見つけると、柱の陰で青年にキスをされ、じっとなすがままになっているスカイラー。青年に見えない柱の後ろから、スカイラーの手をそっと握るオータムと、それに気づいて、悲しげな目をして指で握り返すスカイラーの姿に、涙をこらえられない。

 

青年から金を借りることができ、翌日の施術は、医師も看護師も全員女性で、緊張するオータムの気持ちをそっと包み込むように、穏やかな時間の中で静かに行われる。麻酔から目を覚ましたオータムにようやく訪れた安らぎ。カフェでスカイラーにどうだったか、と聞かれて言葉少なに答えるオータムの、皆優しかったかという問いに、はっきり、うんと言う安堵の表情がすごく印象的。

長距離バスで家路につく二人の、不安から解放された様子、だけどすっかり疲れて、閉塞感でいっぱいの日常へ戻っていく、そんなアンニュイな姿に複雑な気持ちが錯綜する。

 

 

この映画、ストーリーという意味では、特に何か大きな事件が起きるわけでもなく、予想外のダイナミックな展開があるわけでもない。娯楽作品として面白い映画とは言えない。

でも、映画にとって、ストーリーなんてさして重要な要素ではない。プロットは確かに大切だけど、もっと大切なものがある。それは、作り手のビジョンをリアリティーをもって強く訴えかけることができているかどうか、だ。

そういう意味では、この映画は非常に優れた作品になっていると思う。

 

男性中心の社会の、傲慢で高圧的な男性の性的視線に絶えずさらされ、因習的な規範の中に押し込められ抑圧されている女性たち。オータムやスカイラーのような少女でさえ、直面させられざるを得ない厳しい現実。そんな状況でも、お互いに共感をもって支え合い、助け合う女性たちがいる。

男社会の横暴さと残酷さを描くという意味では、前回観た「プロミシング・ヤング・ウーマン」ともテーマが通じているけど、この映画の感動にはまったく及ばない、そのインパクトとリアリティーは雲泥の差。

作品の質の差異は、登場人物たちの心情への移入や同化、作品の世界観への洞察の深さの違いだと思う。

 

この作品では、メインキャスト二人、シドニー・フラニガンとタリア・ライダーの芝居も素晴らしい。二人が演じたキャラクターは、性格や見た目の違いはあれ、いずれもいわゆる「陰キャ」で、演じようによっては、観客を辟易させかねないのだけど、この作品では観る者の感情移入を呼び、二人の瞳に映る世界に誰もが引き込まれる。

これは、単なる陰キャを表面的な演技の巧みさだけで演じているのと、内面の実感に深く根ざした心を動かす芝居になっているのとの違いだろう。

 

そう言えば、あまり的確な比較ではないかもしれないけど、この映画と昨年観た「ブック・スマート」とは、同じ女子高生同士の絆を描いていても、まさに現代社会の「光」と「影」、「明」と「暗」を象徴していて、どちらが正しいとかではなく、どちらも非常に良い映画で、どちらも繰り返し何度も観たい、観る価値のある映画だと思う。

この映画の監督、エリザ・ヒットマンとメインキャストを演じた二人の若い女優にはこれからも注目していきたい。