ここのところ連日テレビは朝から晩までオリンピック一色で見る番組がなくうんざり。ネット配信の映画やドラマもめぼしいものは大方観てしまったので、暇つぶしに映画館で上映中の映画を観てきた。

観たのは、今年のアカデミー賞で脚本賞を受賞、映画評論家のレビューでも非常に評判のよい作品、キャリー・マリガン主演のサスペンス「プロミシング・ヤング・ウーマン」。

ストーリーは、公式サイトからの以下、手抜きのコピペで。

30歳を目前にしたキャシー(キャリー・マリガン)は、ある事件によって医大を中退し、今やカフェの店員として平凡な毎日を送っている。その一方、夜ごとバーで泥酔したフリをして、お持ち帰りオトコたちに裁きを下していた。ある日、大学時代のクラスメートで現在は小児科医となったライアン(ボー・バーナム)がカフェを訪れる。この偶然の再会こそが、キャシーに恋ごころを目覚めさせ、同時に地獄のような悪夢へと連れ戻すことになる……。

観終わっての感想は、うーん、正直よく分からない映画って感じ。

徹底したリアリズムの社会派映画というわけでもなく、感動的なヒューマンドラマというわけでもなく、深い洞察に基づくフェミニズム映画というわけでもない。

キャッチコピーは、「ジェンダーバイアスへの怒りを放ちながらも、ロマンティック&スリリングに仕立てられたジャンルレスな話題作」ということで、曰く「ダークコメディ・スリラー」ということらしいけど、笑えるシーンが一切なく、どこがコメディなのか分からない。スリラーというほどスリリングでもなく、評論家もネットの口コミも、先の読めない予想外の展開と評してるけど、いや、これ、最初から最後まで十分予想できる展開でしょ。

特に、キャシーがいったん復讐をあきらめ、ライアンと付き合うようになったところでは、ああ、これ、きっとライアンが事件に関係してて、破局するよな、と思いながら観てたので、二人のラブラブなシーンのわざとらしさばかりが気になって、白けてしまって。

クライマックスからエンディングにかけても、ビジュアルにしろ音楽にしろ、過剰に派手な演出、加害者アルの手錠が取れたところで、あ、これキャシー死ぬな、で、事前にそれを想定して、死後に何かネット上とかに仕掛けしてあるな、ってのがだいたい読める。

それに、あえて言うと、これで果たして復讐になってるのか疑問。加害者アルは逮捕されても、これって正当防衛(悪くても過剰防衛)が成立して、結局罪は軽くなるんじゃないか、それこそ裁判の陪審員含め、社会の通念や常識が変化しない限り。個人レベルの復讐の限界。

 

まあ、単純なエンタテインメント作品ということでは、それなりに面白いとは思うけど、でも、同意なき性行為(=性犯罪)、女性の落ち度ばかりが追求されるセカンドレイプの問題、加害者が前途ある有望な若い男性(プロミシング・ヤング・マン)であることによって、その罪や責任が酌量されるという社会風潮、もうずいぶん以前からずっと指弾されてきた重大な問題が、真正面から取り上げられず、こういう風に斜に構えて、面白可笑しくエンタテインメントに仕立て上げられてるのを観ると、一体この作品の意味はどこにあるのか、まあ、確かにジャンルレスな作品なのかもしれないけど、それ、悪い意味でじゃないの?、作品のビジョンが曖昧漠然、テーマの本質からの迷走とか逸脱とか、いや、作り手があえて意識してやってるならまだしも、観る側としては、ただ困惑するしかない。

 

エメラルド・フェネル監督のインタビューも見たけど、誰も悪者にしたくなかったって、いやいや、どう見てもキャシー以外全員悪者でしょ。事件の関係者全員に筋の通ったまっとうな言い分があるように設定に気を配った、という監督の言葉とは裏腹、登場人物の心情をリアルに描けば描くほど、この問題の本質は全員が悪者だということが明らかになる。キャシーの両親でさえ、女性に対する社会の通念や規範を疑わず、それを娘に一方的に押し付けて苦しめる、見方によっては十分悪者だ。

どの登場人物も社会の流れの一部だっただけ、と言うが、自分がそういう社会の一部であることに何も疑問を抱かない、真摯に問いかけようとしない、葛藤や悩みがない、その精神的態度自体に決して看過されてはならない重大な責任があるとは思わないのか。

「私が学生だった10年前は当たり前だったけど、今考えるとひどいことが許容されていた」、と監督は言うけど、いや、もうその頃から、この映画のモチーフとなったような多くの性犯罪事件とそれを取り巻く社会風潮が男性優位社会・家父長制の病理問題として批判の対象になっていたはず。それを「当たり前」だったと感じる感受性がどうかしている。

主人公がただ説教して回るんじゃうまくいかない、という発想も、確かにキャシーがまともなフェミニストだったら、ニーナの事件に対する批判と告発を冷静に徹底して粘り強く「社会」に対して行っていったはず。それを面白くない、と思ってしまうのは、この映画の致命的な欠陥。

この映画の狙いは問いかけることだけ、だそうだが、まったく問いかけになっていないんじゃないか。多くの観客、特に男性観客は、この映画で描かれた男性たちを自分と重ね合わせては見ないのじゃないか、悪い男はいるよね、女もせいぜい気をつけてそんな悪い男にひっかからないようにしないと、って、それじゃ、結局この映画の悪者たちと意識がまったく同じ。

ぶっ飛んだヤバい女がいい気になってる卑劣な男どもやその取り巻きの裏切り女どもを痛快に成敗していく復讐劇、そんな風にとらえられてしまったら、誰もそれ以上何も問いかけようとはしない。問題はむしろ矮小化され、「ダークコメディ」として笑いのネタになってしまうだけ。

 

この映画から、あえて問いかけられるべき問題があるとすれば、以下の二つだと思う。

 

一つは、メリトクラシー(能力主義・実力主義)の蔓延がもたらす害悪。

現代社会は、能力や実力がある者、あるいはその獲得のために努力する者ばかりが評価され、異常に優遇される。この映画に登場したような医師とか、弁護士や実業家、そういう社会エリート、あるいは成功したアスリートやミュージシャン、アーティストなどの技術や才能、実績や将来性が十分であれば、人格的な欠点や多少の悪行狼藉は大目に見られてしまうという不条理。そうして他人の痛みや苦しみが分からず、他人を傷つけても平然としていられるような人間が、社会的な批判にまともにさらされることなく、地位や名誉や富や権力を保証されている。他人に対する共感や思いやりというのは、二次的三次的な評価基準でしかない。

そんなことがこれから先もずっと認められてよいのか。人間にとって、能力や実力よりもはるかに大切なものが他にあるのではないか。

日本での最近の風潮を見ても、例えば性犯罪や差別事件など、不祥事を起こした有名人に対して、過去の問題で過度な批判はよくないとか、当人の実績や作品はプライベートの問題とは別、などと言って擁護する声が上がることが多い。

メリトクラシーに基づく社会的貢献とかを大義名分に、所詮は国家の経済成長や文化的進歩・発展など、そういう物欲的な利害打算が常に優先され、その栄光や繁栄の陰で、性犯罪や差別や格差などに苦しむ人々が置き去りにされている。そんな社会のままで果たしてよいのか、

 

もう一つの問題は、いわゆるホモ・ソーシャル(男同士の絆)が呈する非道さや醜悪さ。

この映画の中でも、ニーナの事件の加害者アルやその友人たち(ライアンを含む)の仲間意識は、性犯罪を引き起こした乱交パーティーやクライマックスのバチェラー・パーティーでの愚劣極まりない言動・行為に直接結びついている。殺人を隠蔽しようとするときの、アルとジョーの「美しい」友情と結束など、まさに悪辣そのもの。

女性を性的欲求の対象として「モノにする」ものとしか思わず、男に逆らう女、身の程を「わきまえない」女、男の領分に踏み込んでくる女に対しては、集団でむき出しの敵意や侮蔑をぶつけてくる男ども。その欲望と保身と思いあがりに基づく、気持ち悪いほどの連帯。

男同士の絆や友情の本質が空疎であり、その実態の虚妄と醜さを徹底的にあぶり出すことが肝心。この作品では、そこらへんの突っ込みがかなり甘いと思うので、もっと鋭く切り込んだ映画が作られたらな、と思う。

例えば、自分が親友だと思っていた男が、実は惨い性犯罪の加害者だと分かった時、自分は果たしてそれでも「友情」をとるのか、そんな「友情」などただの幻想ではないのか、そういう問いかけの映画があってもよい。そういう設定ならこの作品の医学生仲間よりも、有名スポーツ選手(ラグビーなど典型的)とかの方がうってつけ、世間で誉めそやされ美化される男同士の友情などというものがいかに欺瞞と汚辱に満ちた虚構にすぎないか、その本質が他人(特に女性)をどれほど傷つけ苦しめる残酷な存在であるか、それを暴き出す映画を観てみたい。

 

なんか最後は、例によってまた映画の感想から大きく脱線(笑)。

でも、そういう意味では、この映画、一般の観客にとっては、おぞらくあまり問いかけにはなっていないのだろうけど、自分にとっては、いろいろ問題提起があったのは確かだったと思う。