何とも言えない不思議な余韻のある、なかなか味のある映画だと思う。

 

波瑠さんのお芝居は、ここのところテレビドラマでも映画でも感情をどんどん表に出すキャラクターを演じることが多かっただけに、この作品で演じた主人公・雅代は久しぶりに気持ちを内に秘めた静かな役柄だけど、決して表情がフラットに流れることはなく、心の繊細な揺れ動きをすごく丁寧に表現している。

映画の原作は、とあるラブホテルを舞台にしたそれぞれ接点のない様々な男女たちの人間模様をオムニバスで描いた小説で、ラブホテルのオーナーの娘・雅代は、その一篇の主人公でしかないのだけど、映画ではホテル廃業後の冒頭のエピソードを除き、ホテルで起こるすべての登場人物たちのドラマの目撃者となる。典型的な物語の主人公ではなく、ストーリーの流れには受け身で、終始冷めた目の傍観者となっているのだけど、最後の自らのエピソードで初めて主体性を得て、物語に印象的な終止符を打つ役割を確かな存在感で演じている。

原作では、独立した無関係なエピソードを淡々とした乾いた語り口で描く中で、自ずと哀愁や孤独感や人間同士の微かに暖かな結びつきが浮き上がるような、それを見守るような舞台であるラブホテルに何か人格があるような、そんな印象があったのだけど、この映画では、ホテルができたのと同時に生まれた雅代もまた、ホテルと一心同体のような、作品全体のイメージを象徴するような存在になっている。

 

原作の雅代は、ホテル廃業の日のエピソードだけの主人公なので、半ばあきらめ気味に開き直って、ちょっと投げやりで遠慮のない、さばさばとした人物描写なのだけど、この映画では、高校卒業直後の進路を見失って鬱屈した、斜に構える態度から、やがてすべてを自分勝手に押し付けてくる両親に思わずぶつける恨みや憤り、ホテルの仕事に忙殺され、次第に感情を失っていく、言葉を押し殺したような冷めた眼差し、そうして10年の歳月が流れてきた、その内心に抱えた思いの深さが、しっとりと美しいビジュアルの背後にしみじみと感じられる。

特に感動的だったのは、入院している父・大吉(安田顕)のベッド脇で、絵はまだ描いているのか、部屋の窓からの景色は最高だった、という父の言葉を聞いて、昔の自分と父の姿を回想し、それまでの積み重なった思いがこみ上げてきて、心が震えるような、そういう思いを吹っ切るように決然と立ち上がる、その瞬間の表情の何とも言えない美しさ。

そしてクライマックスのシーンでは、ずっと思いを寄せていたえっち屋・宮川(松山ケンイチ)とのセックスがぎこちなく途絶え、それでもそうやって初めて本当に傷つくことでやっと傍観者から当事者となり、ようやくすべてのしがらみから解放され、自分で自分を閉じ込めていたこの場所から一歩前へ踏み出すことができるようになる、ここまで抑制していた心情の発露がリアリティーに満ちて、観る者の心にしっかりと響く。

描きかけの絵を捨て、自分とホテルの誕生のときの両親の映った、もう振り返ることのできる思い出となった写真だけを持って、ホテルローヤルを去っていく。宮川からの餞別のみかん、家族の絆とホテルの象徴だったそれを見て初めて微笑むその清々しい最後の姿に爽やかなぬくもりを感じる。

まさに波瑠さんのお芝居が作品を貫く、細いけれど、強く張り詰めた一本の糸になっている。

 

ただ、波瑠さんの真摯なお芝居に敬意を表して、自分も真面目に映画の感想を書かせていただくと、率直に言って、手放しの感動というわけにはなかなかいかない。

不思議な余韻とは書いたけど、個人的には、生きていくことの前向きな希望というよりは、人間の心の弱さ、脆さ、現実を前にした夢や希望の儚さ、寂しさ、無常観といったイメージの方が強い。また、映像が203号室とボイラー室という狭い空間に集中していて、セックスを通じた非日常の解放感よりも、硬直した人間関係の閉塞感という感覚の方がはるかに大きい。いや、もしかするとそれが作り手の狙いでよかったのかもしれないけれど。

 

群像劇のような個々の男女たちのエピソードも、作品の時間的制約なのか、あるいは脚本・演出の問題なのか、人物の心情描写がやや浅いように思えて、説得力がいまひとつ。原作と比較するとそれが顕著。

例えば、冒頭の写真撮影カップルのエピソードも、男の思いと女の気持ちのちぐはぐさを印象づけて、人間の心が通じることの難しさを表現するのでなければ、単に舞台であるラブホテルの紹介・導入シーンにしかならないし、そうであれば、原作にはないここでのセックス・シーンも不要。

使用人ミコ(余貴美子)のエピソードも、貧しさで困窮し、長いこと心労を重ねてきたミコの描写が足りないから、息子の逮捕で心のコントロールを失ってしまう展開がかなり唐突で、ストーリー全体から浮き上がった印象になってしまう。

法事をすっぽかされて浮いた香典でラブホテルへ行ってセックスする中年夫婦も、妻の描写は、抑圧された日常生活を踏まえて、もう少し真面目な、思い詰めたとまではいかなくても、あまりはしゃいだ感じはない方が、困惑する夫との気持ちのギャップがセックスを通して、少しずつ埋まっていく、そういう表現ができたのではないだろうか。

妻の不倫に苦悶する教師(岡山天音)と親に見捨てられたホームレス女子高生(伊藤沙里)が心中に至る経緯も、原作ではこのホテルでのエピソードではなく、その結果が暗示されているだけなのだけど、映画の中の表面的にコミカルな描写から意図したであろうコントラストがあまり効果的でなく、原作の流れに沿ってホテルに着いた時点で既に二人とも心中を決意している描写にした方が説得力が増したようにも思う。

 

まあ、映画作りに無知な素人の観客が言うは易しで、実際に作品を作るとなるときっと難しいのだろうな。

特に、原作がオムニバスというイレギュラーな形式で、しかも時間を遡る構成だからなおさら、限られた鑑賞時間の枠の中でストーリーを展開する映画にするのは相当の工夫が必要だったのだろう。

しかし、雅代を軸とする感情を持った人間の変化の物語と、感情を持たない真の傍観者としてのホテルを中心としたドライな人間模様の描写という、二つの要素がうまく整合していないように思えて仕方がない。どっちつかずの宙ぶらりんなリアリティー、ある意味、それがこの映画の不思議な余韻の要因になっているようにも思える。

 

波瑠さんファンの自分としては、波瑠さんのお芝居にも抜群に美麗なビジュアル・演出にも十分に満足ではあるし、この作品も決して悪くはないのだけど、波瑠さんの潜在的な魅力という意味では、もっともっと素晴らしい映画を創れるように思う。

脚本にもよるだろうし、監督にもよるだろうし、製作環境(特に予算(笑))にもよるだろう。そもそも邦画には、そんなに大きな期待はできないのかもしれないけれど。

波瑠さんの活躍の場は、今のところテレビドラマがメインになっているけど、映画にもまだまだ可能性はあるはず。テレビもNHKのスペシャルドラマ(大河ドラマ主演を含む(笑))ならまた格別だろうし、これってドラマというのか映画というのか、例えばNETFLIXオリジナル作品とか、昨今はネット配信作品の方が思い切った意欲作だったり、世界へ発信する大作ができていたりする。

そう言えば、最近ちょっと気になっていたのは、TVfanのインタビューだったか、日経ウーマンのインタビューとかでもそうだったか、波瑠さんが本格的に英語を勉強し始めているって言っていて、これってひょっとして海外作品への出演オファーが来ているんじゃないか、ってすごく気分がそわそわしている(笑)。いや、きっとあるはず。今から思い切り妄想をたくましくして、楽しみにしている(笑)。