ここ数週間で、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの展覧会や映画を観る機会が続いた。

ていうか、偶然か、意図的な企画なのか、よく分からないけど、集中して開催、上映があったので、ま、これも良い機会かな、ていうか、単なる酔狂(笑)ないしは暇つぶしで観てみた、というのが正直なところ。

暇つぶし、というのは、ややゴッホに対する敬意を欠いているかもしれないが。

 

上野の森美術館で開催されていたのは「ゴッホ展」で、人生を変えたふたつの出会い、というテーマで、オランダ時代の「ハーグ派」とフランス時代の「印象派」からの影響が、どのようにゴッホの画業を形成してきたか、その過程を掘り下げるというものだ。

テーマに沿って、オランダ時代とフランス時代の作品が同じような点数で展示され、それぞれゴッホの作風・画法等に影響を与えた画家たちの作品もあわせて展示されていた。

展覧会の企画趣旨は、それなりに理解できる。

だが、ただ「理解」というだけでは、「感動」にはいたらない。

目玉の展示作品「糸杉」も、何故か所在無げに、どこか場違いな感じで、ポツンと壁にかけられているように感じた。

 

映画を観たのは、ひとつは「ゴッホとヘレーネの森 クレラー・ミュラー美術館の至宝」というドキュメンタリー作品。ヘレーネ・クレラー・ミュラーというオランダの資産家が、まだ無名だったゴッホの絵に魅了され、生涯をかけて300点に上る作品を収集し、美術館の設立にいたったという、その視点によるドキュメンタリーということで、ちょっと興味があったのだけど・・・。

結局、ごくごく普通の美術解説ドキュメンタリーに終始している印象しかなかった。

期待していたヘレーネという女性のゴッホに対する傾倒や情熱のそもそもの根源的理由についての突っ込んだ描写というものもほとんどなかった。

有名女優のナレーションで、収集作品について凝った言葉でありきたりな説明をし、ゴッホの書簡等に基づく制作の背景やらあれこれ、美術館のキュレーターや美術評論家が代わる代わる登場して、てんでに勝手な講釈を述べる、という、分かったような、分からないような、実に薄っぺらく平板な内容。

これなら映画でなく、特に視聴コストのかからないテレビ番組で充分。

 

もうひとつの映画は、ウィレム・デフォー主演による「永遠の門 ゴッホの見た未来」という伝記作品。パリ時代以降の死に至るまでのゴッホの晩年を、独特のカメラワークでドキュメンタリー・タッチで描いている。ゴッホ目線での映像は、手振れでぐらぐらして、酔いそう(笑)だし、台詞のないシーンが延々と続いたかと思うと、顔面アップでの息苦しい対話シーンも長くて、見ていてかなり疲れた。

総じて、ゴッホを不遇の天才、という見立てで、いかに彼が時代の先取りをしていたのか、それが彼をいかに苦しめたか、と、まあ、そういうことなんだろうな、としか思えないような演出。

いや、でも、それは全然違うでしょ、ゴッホは未来なんか見てなかったよ、と言いたくなる。

ウィレム・デフォーは熱演だけど、それも方向性がずれてて、痛い。

良い役者なのに、無駄遣い。

 

日本人、に限らず、世界中でゴッホの油絵は非常にポピュラーで、今では、展覧会を開催するのにも、作品確保がたいへんだとか。

自分も高校から大学の頃、若気の至りとは言わないけれど、かなりゴッホの絵に惹かれていた時期がある。特に、星月夜とか夜のカフェとか、アルル時代の強烈な色彩に満ちた作品は、若い自分の不安定な精神に、強い波紋を投げかけていたように思う。

しかし、いつの頃からか、ゴッホの絵を見るのが、心地よくないと思うようになった。

見ていて息苦しい、ま、そういう意味では、ウィレム・デフォーの映画の息苦しさは、ある意味、映画の制作意図には反しているのかもしれないけど、的を射ているのかも(笑)。

 

ゴッホの絵を見て感じるのは、ほとばしる感情や情熱がそれ以上先へ進みようがなく、行き場を失って、どん詰まりの袋小路の中で奔流のようにうごめき、溢れ出しそうに、無限に堂々巡りをしているようなイメージ。

目もくらむような色彩の響きと激しくのたうち回る筆致。

譬えは不適切かもしれないが、猛スピードで突進してきた車が、コンクリートの壁に衝突してぐちゃぐちゃに潰れてしまったような絵画。

そして、そういう風にして、ゴッホ自身も命が尽きてしまった。

 

ゴッホの絵を語るのに、ゴッホの手紙の引用や、彼の精神病への言及をするのが、常套手段になってるけど、そんなものはまったく不要だと思ってる。

絵は、絵そのもののみに語らせるべき。

ゴッホがどんな人間だったか、制作の背景とかも関係ない。

 

ゴッホの絵が語るのは、自分自身の人格、その精神と技術を突き詰めて、究極の美、自然=神の真理に迫りたいという、常人には、とうていその試練に耐えがたい、強烈な希求。

それは、決して叶うことのない願いであり、必ず破局に至る。

アプローチが根本的に間違っているのだ。

だからと言って、ゴッホを責めることはできない。

 

弟テオへの書簡という形で膨大な量の文章を残したのも、およそ絵だけで完結することのできなかった過剰な精神が表現の出口を求めて叫んでいたのだろう。

狂気や精神病というのも、それは所詮、医学や社会が勝手に定義し、解釈し、枠にはめようとしていただけのことで、それなのに、ゴッホ自身もそのような「病気」という概念に呪縛されていたのに違いない。

彼の死が、病の結果としての自殺なのか、それとも一説にあるように(映画「永遠の門」の設定がそうであるように)不慮の事故によるものか、それがどちらであろうとも、そこに本質的な違いはない。

ゴッホの絵は、もうそれ以上どこにも進みようがなかった。仮に、それ以上、生きたとしても、もうそれ以上の絵は描けなかった。

彼の絵は、後世の画家の誰にも影響を与えていない、というより、誰も彼の絵を継ぐことはできなかった。それは、それ以上に進みようがない、行き止まりの芸術だったからだ。

 

いや、こんないい加減なブログの文章で、ゴッホについて語るのは容易ではない。

なので、もうこのへんでもうやめておく。

しかし、展覧会にせよ、映画にせよ、ゴッホに対する世間の関心は、あまりに軽薄すぎるし、あまりに見当違いだと思う。

その芸術に対する、歪んだ人気には、何か背筋がうすら寒くなるような不気味ささえ感じる。