たまには映画やテレビドラマや波瑠さん以外の話題も(笑)

 

昨日の夜、上野の国立科学博物館でラスコー展を見てきた。ラスコー洞窟の壁画をデジタル技術で精密に再現したレプリカが見られるというので、前から一度見たいと思っていた。

本物の壁画は保存の必要性のため、現在では学術研究者を含め完全非公開となっているそうで、現地では洞窟の近くに観光客用に洞窟を再現したものがあるとのこと。現物の壁画をラスコー1と呼び、観光客用のレプリカをラスコー2という。今回展示されていたのは、ラスコー2よりもさらに精密な再現をしたラスコー3で、世界中を巡回展示しているらしい。

展示は、ラスコー3だけでなく、洞窟壁画の発見と保存の経緯や洞窟のミニチュア模型、壁画を描いたクロマニヨン人たちの暮らしや壁画の描かれ方などに関する解説、壁画を描くのに用いた道具などの展示もあった。

中でも圧巻なのは、何といってもラスコー3。薄暗いコーナーの中に実物大の迫真のレプリカが展示されていて、壁画の前に立つと思わずぞくぞく鳥肌が立つような感動があった。

 

ただ、展覧会全体としては、やはり科学博物館の展示なので、美術やアートとしての側面よりも、学術・研究の対象としての側面の方が強いように思った。主催者の意図も来館者の関心も壁画の美しさや偉大さというよりは、その描かれた方法や目的、描写対象やその意味などへ向けられている印象が大きい。

ラスコー3の展示も洞窟内部の再現ではなく、ひとつのまとまった空間・部屋ではあるけど、壁画を断片的につなげている感じなので、洞窟の中で実物を見ているような臨場感までにはならない。また、壁画の線描を光で表示して見せるために部屋の照明が暗くなったり明るくなったりを繰り返しているので、じっと集中して壁画を見ているのが難しい。

壁画そのものをそのまま見せてくれればそれでいい、余計な解説や理屈はいらない、と思っている自分のような天邪鬼にとっては、ちょっと、と言うか、かなり物足りない、いや、物足りないじゃなくて、物多過ぎ(笑)

 

展示コーナーの一角には、ラスコー洞窟があるフランスの考古学者・人類学者・生物学者・哲学者・画家などが洞窟壁画について語るフィルムを流しているところがあったけど、ま、みな何だかそれぞれ小難しいことを言ってるんだが、自分にはどれもこれも的外れなコメントにしか思えなかった。特に、その中のある老女性画家が洞窟壁画を再現して描こうとしたときに、古代のシャーマンになりきることではじめて描けた、というような趣旨のことを語っていて、ああ、そういう回り道のプロセスを経ないと現代人はこの壁画にまともにアプローチできないんだな、と若干虚しさを感じたりした。まあ、それでも、あまりまともなアプローチになっているとは思えないんだけど。

 

でも、再現された壁画そのものは素晴らしかった。もし実物をこの目で見ることができたら、きっと感動にふるえて涙が止まらないだろうと思う。

これを人間の美術の原点と考えるのは、ちょっと違うかもしれない。ラスコーの洞窟壁画と比べたら、古代オリエントの美術も含め、それ以降、中世・ルネサンス・近代・現代の美術のどのような作品でも、比べようもなく劣っているように思えて仕方がない。原点というよりは頂点。時代が下るにつれて、人類の美術は劣化の一途ではないか。

洞窟壁画や、あるいは縄文時代の土偶とか土器と比べて、これらに匹敵するようなものがあるとしたら、雪舟の水墨画ぐらいしか思い当たらない。西洋には皆無というか、まあ、せいぜいセザンヌの油絵とかくらいかな。

 

まあ、壁画を描いたクロマニヨン人にとっては、どうでもいいことかな。壁画が描かれたその時間と壁画を描いた人々の生命、それがもうことごとく消え去ってしまった今、自分も含めて小賢しい現代人の考えや一方的な思いなど、所詮どこにも及ばない、とるに足らないものでしかないんだろう。

現代人は、壁画の保存に必死で、それはそれで大事じゃないとは言わないけど、でも、それで一体何をしようと言うのか、学術・研究のためか、観光資源のためか、美術とかアートとか言っても、本当にその真価をわかる人は果たしてどれくらいいるんだろうか。

展覧会場を後にして、寒い冬の夜道を上野駅へ向かって歩きながら、美しいものを観た感動とそれを取り巻く時代のムードの虚しさを反芻していた。

 

ちなみに、最近話題沸騰の某人気ラブコメドラマにもラスコー展が出てくるようなことがネットの記事にあったけど、何だかかぶってしまってやな感じ。あーあ、壁画の真価も何もわからない連中にドラマのネタで利用されるなんて、虚しさもつのるばかり(笑)