朝ドラや大河ドラマに限らず、時代劇や歴史ドラマや現代劇でも、実在の人物や史実・実話を下敷きにしたテレビドラマは結構多い。

そういうときによく議論になるのが、史実・事実とドラマの内容がどこまで一致しているのか、という問題。よく聞く言葉(特に最近のNHK朝ドラ)で言うと、実在の人物が「モデル」なのか「モチーフ」なのか、というような議論になる傾向があるようだ。

 

ただ、モデルとモチーフがどう違うのかは判然としない。前者は素材で、後者は題材、と言われてもちんぷんかんぷん。どうやら全体の議論の雰囲気としては、モデルであれば史実・事実に忠実であるのが望ましく、モチーフであれば自由に創作してもOK、というなんだかすごく安直な考え方に落ち着きそうな感じ。

それって果たしてどうなの?

モデルはもともと「型」という意味だから、史実・事実の形式的側面を重視しているようにも思える。だったら、内容的には自由な創作が許されるんじゃない?逆に、モチーフというのは、「動く」というのが語源だから、動機・主題・テーマというように、実質的側面を問題にしていると考えれば、史実・事実の中身=実体を反映しているべき、とも考えられる。

 

でも、まあ、言葉の定義や正しい使い方なんて、この際どうでもいい。

重要なのは、このドラマは実話をモデルにして、事実に忠実に作りました、と言っても、それだからと言って、それで良いドラマになると言える保証はどこにもない、ってこと。「事実は小説より奇なり」とかうそぶいて、ただ事実をなぞり、それによりかかっているだけでは、ドラマとして二流三流のものにしかならない。歴史通とか史実厨とか言われる一部マニアに迎合しているだけの歴史ドラマも同様。

また、モチーフにしました、と言うのなら、その動機・主題・テーマの中身が問われなくてはならない。それは、果たしてドラマとして観る価値のあるもの、視聴者を感動させるようなものになっているのか?

 

実在の人物や史実・実話をドラマ化するのであれば、その人物=主人公やストーリーに対して、作り手がこめた真摯な思いがなければならない、と思う。そもそもどうしてその人物や史実を作品として取り上げようと思ったのか、その思いの深浅がドラマの出来を左右するんじゃないか。

歴史上・事実上の客観的な真実が問題なのではない。作り手の創作ビジョンの基礎にある主観的な真実が問題なのだ。そのビジョンさえしっかりしていれば、史実・事実との一致云々は二の次三の次だと思う。

歴史的事実は崇高で深遠なものだから、作り手が創意を加えなくてもそれ自体で十分にドラマになるなどと考えるのは、勘違いも甚だしい。史実そのままの方がドラマチックだというのも、たいていは単なる思い込みや錯覚でしかない。芸術や文学は、それが真に優れた作り手によるものであれば、それこそ歴史なんかよりもずっと崇高で深遠なものだ、と思う(もともと歴史というのは文学のサブジャンルでしかない)。

 

「あさが来た」が素晴らしいドラマになったのは、白岡あさ(広岡浅子)とそれを取り巻くキャラクターに込めた脚本家・ディレクター・キャスト・スタッフの思いがしっかりとしたひとつのビジョンを描いていたからだと思う。そのようなビジョンを徹底するためには、史実との相違や乖離はあって当然。そうして、このドラマは、歴史学上の無味乾燥な客観的真実ではなく、作り手と視聴者が感動を共有する主観的真実になったのだ。

 

他方、ま、他のドラマのことをあまりとやかく言うのはどうかと思うけど、史実との相違について、モデルではなくモチーフだとか弁明して、では、そのモチーフとして、史実から離れて一体何が言いたかったのかさっぱり伝わってこない作品なのでは、どうしようもない。

また、近頃の大河ドラマによく見られる傾向だけど、確かに史実を尊重して、時代考証も適切だけど、ただそれだけ、人間ドラマとしてすごく表層的で底が浅い、主人公の内面や人間性、生き様の何を訴えたいのか、人間にとって歴史の持つ意味は何なのか、そういう問いかけがすっかりおざなりになっている作品がやたら目につく。大河ドラマと銘打つのなら、ストーリーやキャラクターが面白ければそれでよい、ってものではあるまい(って、むしろそういう娯楽性オンリーの方針で徹底すると明言するのならあえて全否定するつもりもないけど)。

 

結局のところ、モデルかモチーフか、というような議論になること自体、作り手の作品におけるビジョンが曖昧で不徹底なことの証左なのかもしれない、と思う。

でなけりゃ、そういう議論をしたがる視聴者側の問題なのかもしれないけどね(笑)