最近のテレビドラマ(特に朝ドラなど)を見ていて思うのだが、出来の悪いドラマというのは、脚本がよくないのか、それとも演出や演技にも相当の責任があるのか。

そもそもよくない脚本というのは、どういう点がよくないのか。

 

脚本というのは、完成品ではない。柱書きとト書きと台詞だけで書かれていて、小説と違い、ストーリーの流れ・背景の説明やシーンを取り巻く状況、登場人物の履歴、人間関係、内面心理などは書かれない。当然、役者の演じ方についても書かれていない。役者とスタッフによって上演されることによって初めて完成する。いわば半製品。

脚本は、役者の演技によって肉付けがされて初めてドラマになる。

 

そういう前提で考えると、欠陥のある脚本というのは、ト書きと台詞、台詞と台詞の辻褄が合わない、つながらない、発せらるはずのない台詞が書かれ、発せられるべき台詞が書かれていない、あるはずのないシーンが書かれ、あるべきシーンが書かれていない、というようなことになるのだろう。テレビドラマの場合は、あらかじめ放映時間が決まっているから、詰め込み過ぎて時間が足りないとか、シーンが短くて時間があまるとか、そういうこともあるだろう。

 

他方、脚本にとって、ストーリーが面白くないとか、プロットが凡庸とか、テーマが浅いとか、内容に関する部分は、むしろ付随的な欠点ではないだろうか。

エピソードがありきたりで展開が退屈でも、丁寧な描写を積み重ねれば、それが一種のリアリズムとして成り立つ可能性はあるし、むしろベタなプロットが安定感につながることもある。テーマが浅くても、それでただちに娯楽性が欠けるわけでもない。

 

以上のような脚本の欠点なら、演出と演技によって、ある程度はカバーできるのではないか。

つまり、感性とイマジネーション次第で行間を埋める作業が本来はできるはずだと思う。

脚本家の作った、ときに出来の悪い、あちこち不具合のある半製品でも、どうやったら少しでも全体として機能する完成品にできるのか、それを工夫し、尽力するのがディレクターと役者の役割であり、責任だと思う。そういう余地は、一般にかなり大きいのではないか。

 

逆に、例えば、演劇で言えば、シェイクスピアやイプセンやチェーホフのような古典的名作でも、実際に舞台で上演されたら、演出家と役者次第で傑作にもなれば、駄作にもなる。

 

特に、テレビドラマの場合、重要なのはキャラクターの魅力だ。つまらない台本からでも、キャラクターを魅力的に描ける可能性というのはあるはずだ。

ディレクターや役者の台本を読み解く力、それを自分なりに納得のできる形で表現する力、いや、能力や技術というよりは、感受性や心構えや意志、そういうメンタルの部分が脚本と同等以上に大切だと思う。

 

どんな脚本でも標準的な水準以上のドラマにするディレクターや役者というのがいる、と自分はそう思う。(暗に波瑠さんのことを言っている(笑))

ただし、良質なドラマの場合、ドラマを観ただけでは、脚本が良いのか、ディレクターや役者が良いのかは分からないが、多くの場合は、両方が良いのだ。

逆に、出来の悪いドラマの場合は、脚本の責任は当然あるとしても、それは同時にディレクターと役者も良くない、と言える。ディレクターと役者が良ければ、どんなドラマであっても、およそ目も当てられないほど酷いということにはならない、と思う。