シン・ゴジラを見て、ゴジラとガメラについて思うところがあったので、ちょっと書いてみる。

 

ゴジラが第一作でせっかく怪獣映画の画期的な嚆矢となったのに、その後は怪獣プロレスから災害パニック映画みたいになって、日本だけでなくワールドワイドでもう60年以上も迷走が止まらないのに対し、ガメラは初代ゴジラの正当な後継者となって、平成ガメラ三部作で怪獣映画の本質に迫る作品を作り上げることができた。

この違いは何なのだろう?

 

ゴジラの第一作で最も衝撃的だったのは、大戸島の尾根の背後から唐突にゴジラがぬっと出現するシーンだ。ちょっとルドンのキュクロープスの絵のようだった。

あるいは、新幹線で三島駅を過ぎたころ、目の前にがっと現れる富士山の神々しい姿のような感じ。

あの瞬間、現実と思っていた観客の観念上の日常が突然すべて打ち破られ、この世界の本当の意味でのリアリティーに直面させられたのだと思う。リアリティーの意味が通常の意味とまったく逆だが、つまり「この世界は人知を超えてまったく理解不能だ」というリアリティーだ。

怪獣の本質は、そういう意味でのリアリティーにある。

しかし、その瞬間の画像だけでは、物語にも映画にもならない。

では、どうしたらそれを映画にできるのか。

ゴジラ第一作は、人間の愚かさに対して、荒振るカミ(神と書くと宗教的なのでこう書く)の神威を、人身供犠によっておさめる、というストーリーを創作した。

原水爆に対する批判とかは二次的なものにすぎない。映画の中心になったのは、カミとしてのゴジラの威容と人間の力を超越した破壊のカタルシスだった。

これはこれで怪獣映画の正統的なストーリーになった。

 

しかし、映画の想像以上の成功で、制作者も観客もかえって怪獣映画の本質を見失った。説明のつかない衝撃と感動を追い求めて、次々と的外れなものを作り、原初のリアリティーから遠ざかっていくこととなってしまった。

ゴジラの悲劇はそこにあったのだと思う。

 

ガメラはもともとゴジラの二番煎じでしかなかった。

子供の味方のヒーロー怪獣、というような陳腐なB級色もずっと拭えなかった。

しかし、意図したのかどうか、偶然か必然か分からないが、結果として怪獣映画としてのコアの部分を保持することになったのは僥倖だと思う。

 

ゴジラは、いつも人間の側にストーリーの重心が傾きがちだったのに対し、ガメラは、常に怪獣がドラマの中心であり続けた。怪獣をいかに面白く魅力的に見せるか、それが制作者の主たる関心であり続けた。

造形を見ても、ゴジラは、初代がトカゲや恐竜のような非常に曖昧で抽象的な形態だったため、存在の輪郭がその後もずっとあやふやだったのに対し、ガメラは、その独特の形態が怪獣としての強い存在感の源泉となった。丸く大きな甲羅と下顎から伸びた二本の牙。カメというのは、一種の神獣を連想させ、ゴジラにはない神秘性を帯びさせることにもなった。特に、そもそも当初の発想からあった、頭と手足を甲羅に引っ込めて、ジェット噴射で回転し飛翔する、というどこかユーモラスで奇想天外な設定は、ガメラが恐怖の対象としての単なる「巨大生物」に零落するのを防いだのだと思う。

 

昭和のガメラ作品はお世辞にも出来が良いとはいえない代物ではあったが、ガメラの存在自体が怪獣の本質から離れなかったことで、怪獣映画のコアの部分が平成三部作に伝わり、ガメラ3という傑作に結実した。ただし、ある意味、これも一種の偶然かもしれない。

 

怪獣の本質を理解している映画関係者は、ほとんどいない。

ガメラ3を超える怪獣映画は、今後もなかなか出てこないだろう。

他方で、ゴジラはと言えば、今回のシン・ゴジラで迷走には今後ますます拍車がかかりそうな雲行きだ。いや、もしシン・ゴジラの路線が是とされるようなら、この映画はとうとう終焉を迎えた、と言うべきなのだろう。

正直、ゴジラの可能性には、いい加減見切りをつけた方がよいのかもしれない。

 

 

【おまけ】 ガメラ3のテーマ曲を動画で貼っておく。