いつもご訪問いただきありがとうございます。

本日はなんとなく、

やっぱり父に似たのかなーという、

過去を振り返ってのお話です。


私の父親は大正元年生まれの靴職人でした。

大正元年は明治45年と同じなのですが、

自分は明治生まれではない!

というのが自慢でした。

それの何が違うんだか。

まるで寺内寛太郎のような短気で頑固な職人。

寺内寛太郎一家。

私が育った家庭は知る人ぞ知る、

ちゃぶ台返しのあの家族そのものでした。


兄弟喧嘩をしていると、父は必ず

ドン!とちゃぶ台を叩き、

お膳をひっくり返すが早いか、

子供達は蜘蛛の子を散らすように飛び去り、

あとで戻って

泣きながら飛び散ったご飯や味噌汁を掃除し、

もしも両親が離婚したらどっちについていくかと

寝床で真剣に話しながら

翌日には何もなかったのように

ケラケラと笑っていた昭和の家族。


浅草で修行し、

何度もデザイン賞をとり、

銀座の有名靴店に毎日のように納めていた人。


気に入らないなら買うな、と、

お客と喧嘩腰になることもありました。

お父さんは商売にならないと、

母がよく嘆いていたものです。


きょうだい全員そうなのですが、

私もその職人気質を受け継いでしまったようです。

ただ、あのような短気はカッコ悪いと思ったので、

瞬間的湯沸かし器のようにはなるまいと、

母に言われたように、

腹が立った時は5秒我慢するように努力したものです。



20代の頃、

虎ノ門のとある社団法人に勤めていたのに、

オフィスワークに馴染めず退職して

花屋に転職してしまいました。

カエルの子はカエル。


当時華の霞ヶ関の通産省の一階に

職場があったにもかかわらず、でした。

あー、勿体無い。


それはそれは楽しかったのですが、

作るということにこだわりがあったのでしょう。


転職したアトリエで、

こんなブーケをデザインしました。

シルバーのブーケです。



某有名ブランドのウエディングブーケにも

関わらせていただくこともありました。

当時、山口百恵さんと三浦友和さんなど、

華やかな結婚式がブームでしたから、

週刊誌を開ければ、

かわいい花嫁さんたちが、

私たちのアトリエで作ったブーケをもって

グラビア写真を飾っていたものです。


結婚式場の車内広告にもよく出ていました。

パーツの作成は高度な技術を必要としたので

手先が器用な父に内職を頼んだら、

完璧に作ってくれました。


だけど、父に似たところはもう一つ。

器用貧乏。

金儲けが下手。



血は争えませんね。

どうもお金儲けに繋がりません。

いつも貧乏で、

貧乏はこれからも続きそうですが、

貧乏は筋金入りの姉曰く、

借金がないのが自慢だよ、と。

そう、それは自慢です。


むしろ、

この歳で、仕事があること、

打ち込めるものがあること、

それが何よりありがたいことだと思います。

今できること、

頑張りたいと思います。


本日も読んでくださいましてありがとうございました。