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わたしは誰かと会った帰りの電車のなか、そして1日の終わりに、きょうあった出来事やその日会った相手とのやり取りを振り返る「ひとり反省会」をするようにしていて。
(“反省”という言葉のせいか)このことを話すとたいていの場合、「そんなに考え過ぎなくていいんじゃない?」「ストイックだね」といった反応が返ってくることが多くて。
どうやら、わたしの考えている反省は、周りの人が捉えているものとはやや違った側面があるみたい。ということで、ちょっとこのことをシェアしてみようかな。
わたしにとっての「ひとり反省会」は、いつの間にかズレてしまった心の軸を真ん中に戻す“心のチューニング”のようなもの。ピアノやギターなどを、時折り調律するのと同じ……と言えば、すこしはイメージしやすくなるかな。
たしかにわたしは、人より感受性がいくぶん強かったり、起こった出来事や相手の発言の奥にある「本当のところ」を深く考えたりする気質があるのも事実。
それに、反省という言葉は「犯した罪や間違いを悔い改める」といった、一般的にはやや後ろ向きな印象を受けるのも理解できる。
ただ、どれだけ根っこにある想いや言動がピュアな動機によるものであったとしても、その意図は簡単にすり替わってしまう危うさがあるもの。さまざまな情報や価値観をかんたんにキャッチできたり、こうして誰しもが自由に発信できたりする現代は特にそう。
当初は「相手に喜んでもらいたい」「誠実な人でありたい」という純粋な思いが先にあったはずが、いつしか「ただ愛されたい、注目されたい」「すこしでも大きく稼ぎたい、あの人を打ち負かしたい」という自分が満たしたい感情や想いが先に来てしまっている。
ひとことで言うなら、前者が「与える愛」であったとしたら、後者は「奪う愛」の状態。
本人にそういった意図があってもなくても、そんなバイブレーションは残念ながら相手に伝わってしまう。たとえその場をやり過ごせたと思っても、時間をかけて築いてきた信頼関係が一瞬で崩れてしまうこともある。
これは仕事やプライベートに限らず、どんなシチュエーションにだって、どんな間柄であったとしても言えること。
だからこそ、「わたしは大丈夫」だなんて思わずに、自分自身を省みる時間をとることは、必要不可欠なんじゃないかな。むしろ、「反省なんて必要ない」と思った瞬間、これまで抱いてきたピュアな想いは“死んでしまった”のと同じなんだと思う。
これは決して、特定の誰かへ向けたものではなく、自分自身にも絶えず厳しく言い聞かせていること。
だからわたしにとってのひとり反省会は、自分の言動などにくよくよと落ち込むことではなくて、心の奥底にあるピュアな想いと日々の言動にブレがないかどうかの点検作業のようなもの。
日々の行いが相手へのピュアな想いが動機なのか、それとも自分の満たされたい想いが先なのかによって、日々の言動はまったく違ったものへとなっていくはず。
すこしだけ静かな環境で、呼吸を整えて。うっかり「奪う愛」に生きていないか、ひとり反省会を通してチューニングをしてみませんか?
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