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『光る君へ』感想です

先の展開もちょっと含むので

先の事は知りたくないかたは

読まないで下さいネ

 

融通がきかない正直者の

実資の日記『小右記』は

信頼度が高いのだそうです

定子姫は本当に出家完了して

いたのかな??落飾&受戒して

後戻りできない状態

だったのかな??

気になったので実資の日記

『小右記』現代語訳を

借りて来てもらいました

 

この時期の記述を探すと

長徳2年5月1日(ドラマのあの

落飾シーンの日)の事が確かに

書いてありますが。。。

実資は現実に検非違使別当に

就任してるのですが

現場には行ってないようですし

(現場で働いたのは部下で

実資自身は内裏に出勤)

定子姫の出家については

「伝聞した」という記述です

実資がしかと自分の目で

見て日記に記録したわけ

ではないのですね

ドラマでは大きなお目々で

御髪の切断を目撃(実資)

定子ママにも多大な衝撃

 

<中宮権大夫扶義(ちゅうぐうごんの

だいぶすけよし)が言ったことには

「昨日、后の宮は私の車に乗られ

ました。その後、検非違使の官人が

御所に参上し、夜大殿及び疑わしい

所々を捜検しました。組入天井や

板敷を外して、皆、実検しました」

と云うことだ。后の御為に、限りない

大恥である。また、云ったことには

『后は昨日出家された』と云うこと

です。事は頗る(すこぶる)事実のよう

です」ということだ。>

この本のp.19下矢印

 

 

 

検非違使が踏み込んだ時

定子姫は安全の為

牛車に乗せられていたのですね

中宮権大夫扶義=源扶義

倫子様の腹ちがいのお兄さん

結局どのような落飾・出家で

あったのかは御本人と家人のみが

知る所だったのでは??

現実は検非違使撤退後

一条帝との関係にも絶望

愛情も失ったと考え

ひっそりと内輪で

髪を切ったのではないのかなぁ

お坊さんは呼んだのでしょうか

そこが肝心と思います

バッサリ・・・

 

6月の二条邸火災時については

「侍男に抱えられてまず

高階成忠(定子パパ)の邸に移り

そこから車に乗って高階明順

(あきのぶ)朝臣の宅に移ったと

或る説に聞いた」そうです

定子姫は長徳2年(996)12月に

脩子内親王(ながこないしんのう)

を出産します・そして

長徳3年(997)6月22日の

『小右記』には

定子姫が職御曹司(しきのみぞうし)

に移った事が書かれます下矢印

 

<今夜中宮は職御曹司に参られた

天下は感心しなかった

あの宮の人々は中宮は出家

されていないと称している

ということだ

はなはだ稀有のことである>

 

世間の批判を浴びたように

書いてありますが同時に

「宮の人々」すなわち定子姫の

家内の人々が出家を否定

していた事も記録されている

のですね

ほんとに完全に出家してたのか

どうなのかなー??と思います

 

実資と同じく生真面目で知られる

行成の『権記』はどうでしょう

『権記』は995年12月半ばから

長徳2年(996)5月17日

までの分が残って

いないようですびっくり

7月11日の記録では

火災に遭った中宮定子に

一条帝が見舞いの品々

与えた事が記されています

「絹百疋・調布五百段・銭二百疋

・白米五十石・黒米百石」

何百万円にも相当の品々と
思われます
この時点で定子姫が出家済み
だとは全然みなされてなかった
という事ではないの
でしょうか。。。
出家=離縁と思いますが
定子姫は出家済みと
帝は認めて
いなかったのでは??
 

999年に道長の娘・彰子が

入内しますが、その翌年行成は

彰子立后のために大活躍します

行成が帝に「神事のため、出家

した定子妃の他にもうひとり妃を

立て后とすべき」と詮子

(女院様)手紙をもって

奏上するのです

奏上の内容が『権記』にも

書き記されています。。。

 

 

すごく疑問で不思議なのですが

996年に出家を完了したから

定子姫は神事ができないと

いう事であれば

彰子が立后するまで996年後半

997年、998年、999年の間

今でも年20回ぐらいある宮中の

祭祀では誰が后の役を

していたのでしょう??

 

ひょっとして

定子姫が従来通り役を務め

宮中の神官達は出家を事実と

認めてないか、問題にして

いなかったの??

いやでもそれだと

行成奏上の「尸禄素飡(しろく

そさん・職責を果たさず無駄に報酬を

もらうこと・定子を非難している語)」

という言葉に帝が

激怒するはず雷

では、996年に入内したけど

立后したわけではない

義子姫か元子姫が代わりを

務めていたのでしょうか??

あるいは帝おひとりでも

祭儀可能だったの??

???

行成は「皇室の神事」とは

言わないで「藤原氏の神事」

にばかり言及しています

一番問題なのは皇室の神事

でしょうに??と不思議に

思ってしまうのです

なんか道長の都合の良いように
皇室のルールと藤原氏のルール
をごちゃまぜにして
定子姫を祭祀から排除して
彰子姫を后に立てたような
感じがするんですけど。。。
(※とても疑い深い性格の
素人のおばあちゃんの感想)
 
皇后が橘家の姫だったことも
あるのだし(嵯峨帝の時)
神事のできる皇后じゃないと
藤原氏の祭事のお役が
できないから困ると言うけど
じゃあ橘の姫が皇后の時代
(在位期間8年・815-823
・大原野神社の創建は784)
その「藤原氏の神事」は
どうしていたのでしょう??
 
この立后の件でも
いったいどうやったら道長を
善人のままに描けるのか
ドラマの展開に興味津々です
 
あと、出家と言えば
道長も53歳で出家するので
その時やっぱり坊主にするのか
それより前にドラマ終了なのか
それも楽しみにしています
テレビの道長
坊主頭似合うのかなー
 
詮子・道長のために行成は
理屈を綺麗に並べ
一条帝を説得します
道長と行成って同じ日(1028年
1月3日・万寿4年12月4日)に
亡くなったそうですびっくり
道長の政界制覇のため
生涯協力を惜しまない行成
この2人もソウルメイト??

ソウルメイトとは 同じ目的を

協力して達成する等の約束

前世でしており今世でも会えた人

のことだそうです

 

お読みいただきありがとう

ございましたお願い