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m。。m
「大学寮」は官吏養成機関です
現在の国立大学のようなもの
宿舎を指す言葉ではありません
今で言う大学寮(寝食の場)は
「直曹(じきそう)」と
呼ばれていました
そして一般学生向け「直曹」の
ほかに、有力な氏族が独自に設けた
氏族専用の寄宿舎がありました
「大学別曹」です
氏族出身の官吏を増やすことは
氏族の繁栄に直結します
だから氏族の子弟を生活面等で
強力にサポートし
他氏より有利に育成
するために、有力氏族は
学生寮の運営を考えたのです
惟規が住み込んだと思われる
藤原専用寄宿舎「勧学院」
は大学寮の少し南にありました
藤原冬嗣が創立(821)
藤原氏トップリーダー
(藤氏長者)が代々管理し
優秀者には
学問料
が支給されました
紫式部も清少納言も読んでいた
『うつほ物語』に出て来る
藤原季英(すえふさ)は
勧学院に寄宿し
貧困にあえぎながらも
大学寮で学んで立身します
<夏は蛍を涼しき袋に多く入れて
書の上に置いてまどろまず
まいて日など白くなれば
窓に向かひて光の見ゆる限り読み
冬は雪をまろがして
そが光に当てて眼の穿(う)ぐる
まで学問をし・・・>
「ホタルの光・窓の雪」
こんな歌、昭和の卒業式で
歌いました今は閉店の
お知らせミュージックですが
この部分を読むと、やっぱり
藤原の子でも
親の社会的な力が弱ければ
必死で勉強するしか
なかったんだなー
と思います(惟規!)
「勧学院の雀は蒙求をさえずる」
(『蒙求(もうぎゅう)』は中国の
初学者向けテキスト
「蛍雪の功」も『蒙求』中の故事)
というコトワザも
12世紀の『宝物集』という
書物に見られるそうですし
(「門前の小僧 習わぬ経を読む」
と同じ意味だそうです)
菅原家の文書にも勧学院での
漢書の講義に関する記述があるとか
つまり勧学院では
窓辺のスズメも聞いて覚え
ちゃうような集団授業も
行われていたのですね
他氏の子よりも藤原の子が
良い成績をあげれるよう
補講・特講も付いた
男子学生寮
という感じでしょうか
藤原の子はダブルスクールで
いっそう有利に
そこまで親身に同族の子を
サポートしたのですねー
授業・課題が多くなり
ハードさ増し増しでしょうが
勉強は大変でしょうが
同じ藤原の友達もできるし
藤原の荘園からの上がりで
ご飯も出してもらえる
でも親の権威を笠に着て
威張る先輩等もいて
苦労があったのかな
いや、あったでしょうね
姉上帰って来ましたよー
いとさん嬉しそう
視聴者もにっこり
今学校で流行ってるのは
『新楽府(しんがふ)』
お母さん死んじゃうし
お父さん頼りないし
大変でも、いつもニコニコ
けなげな弟・惟規(のぶのり)
ママに溺愛されて
パパにゴリ押ししてもらって
妹の力が足りないとなじる
毒兄コレチカ
オマエがその地位にいるのは
定子姫のお陰なんだよ
アタマの回転が良すぎて
クルクルで
ワカラナイのかな
このヒトも大学寮にぶちこんで
苦労させれば良かったのにね
夕霧を厳しく育てた
光源氏の子育てが
正しかったんだ~
(しみじみ)
他の氏族の専用寄宿舎
( )内は創立者です
和気氏 弘文院 (和気広世)
橘氏 学館院 (橘 嘉智子 )
王氏(在原・源・平など)奨学院(在原行平)
弘文院は勧学院の北隣
奨学院は勧学院の西隣
学館院はもっと西の方
(現在の朱雀公園一帯)
にありました
※以下はいしぶみファンの方しか
ご興味ないと思います
トバシテくださいね
二条駅から
千本通りを少しだけ南下すると
三条通商店街の入り口があります
入って東へ進んで行くと
スーパーFRESCO(フレスコ)の
駐輪場があります
その角を左(北)へ入ると
民家の前に碑が建っています
大学寮はこんな広~い敷地に
建っていたそうです
中学校2校分より広い
上の図で二条城の南西角の斜向かいの
「石柱」て書いてる場所に
「此附近(このふきん)
大学寮址」の碑
お地蔵様のそばです
この碑も大正時代からあるそうです
私は京都出身ではないので
あっ石碑!ここにも石碑!
ほらまた石碑!こっちは駒札!と
いちいち反応・喜んでしまいます
おのぼりさんですねー
ごらんいただきありがとう
ございました