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m。。m
宣孝のキンキラスタイルでの
金峯山参詣(御嶽詣)出発シーン
とか映らないかな?無いだろなぁと
思ってたのですが、まさかまさか
キンキラ宣孝様を
拝見できるとは
このドラマほんとに楽しい
枕草子に書かれた宣孝の御嶽詣については
「光る君へ」初回放送で
庶民の芸能「散楽」が上演され
アクロバティックな演技で
道長少年を魅了しました
内容は源高明が藤原氏によって
追い落とされる「安和の変(969)」
高明を「たかあきら」じゃなく
「コウメイ、コウメイ」と
言ってましたね
「この恨み~晴らさずにおく
ものか~!」
「そ、その声はコウメイの
大臣(おとど)!」
というあのセリフが
今の状態の伏線だったのですね
そういえば散楽でやってたわー
コウメイの怨霊に「トウ(藤)の
3兄弟」が倒されるんだっけと
思い出し
兼家危ない
と視聴者は心の中で叫びます
1月に3~4月の内容の伏線を
張っていたのですねー
応天門の変は866年ですから
安和の変は応天門の変の約百年後に
起こった「藤原氏による他氏排斥の
総仕上げ」と言えるでしょう
応天門の変(866)では
讒言(ざんげん・ 他人をおとしいれる
ため虚偽内容を告げること)によって
源信(まこと)が失脚
空席になった左大臣に
藤原良相(よしみ)が昇進
(しかし後に良房の進言で
調査が実施され、源信は無罪に!
真犯人とされた伴善男は配流!
伴家は没落!勢力拡大したのは
藤原良房&基経)
人々が朱雀門から燃える応天門を
見ている場面
伴大納言絵巻
冷泉為恭 模写 19世紀
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
昌泰の変(901)では
讒言によって菅原道真が失脚
空席になった右大臣に
源光が昇進
(源光:みなもとのひかるは
時平と手を結んでいたとの事
讒言者・藤原時平は狂死
馬が底無沼に足を踏み入れ
源光は溺死したと伝わります)
・・・大宰府天満宮・・・
安和の変(969)では
讒言によって源高明が失脚
空席になった左大臣に
師尹(もろただ)が昇進
安和の変で得をしたのは
藤原師尹(もろただ)
ならば師尹が首謀者じゃないの
なんで兼家が標的にと
思いますが
師尹(もろただ)は左大臣に
就任後わずか7か月で
声を失う病にかかり
(疱瘡とも言われます)
没していたのです
祟りとか生き霊の仕業とか
言われたことでしょうね
ちなみに師尹(もろただ)は
麗しの実方様のおじいさま
兼家は師尹(もろただ)の兄である
師輔(もろすけ)の子ですから
師尹(もろただ)の甥です
兼家の父・師輔(もろすけ)は
安和の変の時には、すでに故人
安和の変の首謀者候補として名が
挙がるのは師尹(もろただ)の他
兼家の長兄・伊尹(これただ)
散楽では伊尹(これただ)主導で
3兄弟が謀ったという説で
演じてたのですね
安和の変への兼通の関与度は
低かったと考えられてるようですが
師尹(もろただ)主導・伊尹(これただ)
主導のいずれにせよ
兼家は関与してるのでしょうね
兼家の妻である道綱母が
『蜻蛉日記』の中で安和の変に触れ
高明やその妻・愛宮への
深い同情を書き記しているのも
兼家の関与を裏付けているように
思われてなりません
道綱母は頭が良くて、したたかな人
強者であり首謀者側の
兼家の身内でありながら
世間(貴族社会)に向かって
高明への共感をアピールし
世間の批判や追い落とされた一族の
恨みをかわそうとしているように
私には思われるのです
(考えすぎかな)
道綱母が世間の反応や恨みつらみの
心配をせねばならない程には
兼家が関与していたのでは?
安和の変は
「源高明が外戚になろうとして
守平親王を廃し為平親王を立てようと
謀った」という
讒言(ざんげん)で
引き起こされた事件です
密告者は源満仲(多田満中)
と言われています
この源満仲は既に放映された
花山帝の出家(寛和の変)の際に
元慶寺までの護衛を担った人物
同年に出家しています。。。
(満仲出家に関しては美女丸と幸寿丸の
伝説が有名・これだから武士って嫌と
つくづく思う酷い話です)
道綱は源雅信の娘(倫子姫の妹)と
結婚していました
たぶん、雅信娘が没した後の
ことだろうと思いますが
道綱は
源満仲の子である源頼光
の娘婿として迎えられました
やっぱり兼家ファミリーと満仲は
強い繋がりがあったのでしょうね
あの道綱の岳父に
源頼光の酒呑童子退治 錦絵
北尾政美筆 18世紀
出典:ColBase
(https://colbase.nich.go.jp/)
高明といえば右京の広大なお邸
「西宮(さいきゅう」が有名で
高明の著作の名前(『西宮記』)
にもなっています
西宮は高明が失脚・大宰府に更迭
された後すぐに焼亡したそうです
高明は現在の烏丸御池附近にも
お邸を持っており、娘の明子が
引き継ぎました
道長は夫としてその邸に通ったと
考えられるのです
幼時から色々あり過ぎて
笑顔が作れないキャラ設定の
明子女王様が
兼家の扇をゲットして
笑顔に
もちろん史実とは全然
思ってませんが
ドラマならではの
呪詛実行シーンも次回
見られるようですね
明日は高明から明子女王が
継承したお邸の
場所などについてです
ご興味がもし合えばぜひ
ごらん下さい
・どのような恨み讒言(ざんげん)で
高明を陥れたことへの恨み
・なぜ兼家安和の変の首謀者と
目されるメンバーのうち
存命者は兼家だけ