・・・(1)の続きです・・・

 

為光は985年7月に次女・忯子

を亡くしますが、なんと前月に

妻を亡くしたばかりでした

妻と娘の菩提を弔うため為光は

法住寺 を建立(989)

為光は僧侶よりも熱心な

修行三昧の日々を送り

建立後3年で没したそうです

。。。

実は斉信は次男で、長男は

道長の後援を得て政治力をもつ

斉信に圧倒され30代で

亡くなりました(1001)

兄弟仲はかなり悪かった様子

(同腹兄弟です。。。)

斉信と道長は老後までも

仲が良かったそうですが

。。。

道長の子・長家と結婚した後

早逝した斉信(ただのぶ)の娘

の葬儀(1025)も法住寺で

営まれたそうです・翌年は

弟・公信の葬儀も

 

百人一首の藤原道信朝臣

(実方の親友)も実は

斉信の異母弟です

(994年に早逝)

 

為光の建てた法住寺は

焼失(1032年)ののち

再建の記録が無いそうです

ということは斉信の子孫は

栄えなかったのかな?

現在ある法住寺は

後白河法皇の御所の地として

有名な場所。。。

為光建立の法住寺とは

厳密な連続性は全然

無いのかもしれませんが

後白河法皇の陵もあり

血天井で有名な養源院も

お隣ですから

歴史好きの方々は多く

訪ねてゆかれる場所

赤穂浪士大石内蔵助は法住寺の

身代り不動尊に大願成就を

祈ったそうで四十七士の木像

安置されているそうです

 

後白河法皇はここを院御所と

定めた時から「法住寺殿」と呼ばれて

いたのですよね 三十三間堂そばの碑下矢印

 

 

現在の法住寺の正門下矢印

後白河法皇の御所になった場所

として有名なので「あそびをせんとや

うまれけん(梁塵秘抄)」の碑が下矢印

 

法住寺アドレス

京都市東山区三十三間堂廻り
655

こちらの門も法住寺の山門です

(「旧御陵正門」と書かれています

梅の下の碑は「法住寺殿蹟」)

観光名所・三十三間堂のお隣なので

観光客の方が次々記念撮影カメラ下矢印

 

下は花山帝が出家した元慶寺
(京都市山科区)の山門下矢印
どちらも竜宮造で唐風ですね

・・・花山帝の話に戻ります・・・

山科・元慶寺で授与いただiいた御影上矢印

 

出家された花山帝は

またも為光の娘を寵愛されたとか

今度は、為光の四女です

忯子姫に似た姫だったのかな

為光四女のもとへ

通っていたところを

為光三女に通っていた伊周に

誤解され

襲撃されたというのです

それが「長徳の変(995)

為光は既に没していますね。。。

 

襲撃者は伊周の弟・隆家

この時既に父・道隆(兼家長男)

は病気で世を去っており

兄弟には後ろ盾もありません

この事件をきっかけに道長が

容赦なく

伊周・隆家を追い落としました

・・・・・・・・・・・・・・・・

流れ星以下は花山帝と関係ない話です流れ星

 

為光の同母妹・愛宮(あいのみや)

源高明と結婚して生まれたのが

源明子

これからドラマに登場・活躍

するみたいですね乙女のトキメキ

明子は愛宮の娘なので

忯子姫のイトコです

 

庇護者(盛明親王)を失った明子

を東三条院詮子(あきこ)が

引きとって世話し道長に嫁がせます

これ、前々回の「裏の手」発言と

関係あるのかな。。。??

懐仁親王を無事帝位につけたい

でも

兼家&道隆にこれ以上利用される

のは嫌だし何より

信用できない

信用できる道長に後援してもらい

道長の娘を帝に嫁がせれば

きっと希望通りピンク音符

養女を取り自分の意に従う

女性に仕立て道長の妻にピンク音符

②そして生まれた女子を

我が子の妻に王冠2王冠1ウエディングケーキ

定子姫を入内させるのが

兼家・道隆の表の手ならば

明子が産んだ(あるいは倫子

が産んだ)別の姫をわが子に

入内させる雛人形のが

詮子の裏の手???

 

うーんそんな先の先まで

考えるのかなあ。。。

自信ないですが

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お読みいただきありがとう

ございましたお願い