アクセスありがとうございます

今回は紫式部関連で

いいね!ボタン無いです

ご興味ない方トバシテ下さい!

テーマがバラバラですみません

m。。m

昨年から紫式部関連の
百人一首・入集歌を挙げてます
🌸🌸🌸🌸🌸
『紫式部日記』の中に

清少納言をけなしてるかの

ような記述があることは

よく知られている事実

今回はその理由についてです

清少納言  鳥居清長筆(18世紀)

出典:ColBase

(https://colbase.nich.go.jp/)

 

清少納言も紫式部同様

学者や歌人を代々出す家に

生まれ育ちました

百人一首36番の清原深養父は

清少納言の曽祖父だし

百人一首42番の清原元輔は

清少納言の父です

(ドラマに元輔出て来ましたねニコニコ

元輔の入集歌は下矢印

契りきな かたみに袖をしぼりつつ

末の松山 波越さじとは

失恋の痛みと未練ですね

誰かの代詠だそうです

演歌の心に通じるものがありそうな

失恋経験のある人みなが

共感できそうな歌泣

宣房本三十六歌仙絵 清原元輔(14世紀)

出典:ColBase

(https://colbase.nich.go.jp/)

 

清少納言は歌人の家に生まれ

『枕草子』でブレイクし

結婚も経験してからですが

藤原実方という

光源氏モデルとも言われる程の

キラキラ輝く麗人キラキラ

藤原行成という

官吏として有能・能書家として

有名なキラキラ輝く才人キラキラとの

双方に愛されるという

あまりにも

まぶしすぎる青春乙女のトキメキ

を送ったらしい女性です

(ちなみに行成の父は百人一首50番の

藤原義孝で、百人一首45番の

謙徳公は行成の祖父)

中宮定子の信頼を得て

社会的な立場も堅固なもの

だったことでしょう乙女のトキメキ

 

こんな女性を悪く言ったら

相手の引退後であっても

自分の方が惨めな気持ちに

普通なっちゃいますよね

それでも紫式部が

清少納言の悪口を書いたのは

たぶん『枕草子』の下の記述のせい

とも言われます

右衛門佐宣孝といひたる人は

「(金峯山に質素な服装で詣でるのは)

あぢきなき事也。ただ清き衣をきて

まうでんになでう事かあらん。

必ずよもあやしうて詣でよと

(みすぼらしい服装で参詣せよと)

御嶽さらにのたまはじ」とて

三月つごもりに紫のいと濃き指貫

白き襖(あを)、山吹の

いみじうおどろおどろしきなどきて

隆光が主殿助(とのものすけ)なるには

青色の襖紅の衣、すりもどろかしたる

(派手にプリントした)水干といふ袴を

きせて、打つづきまうでたりけるを

かへる人も今まうづるも

めずらしう、あやしき事に、すべて

むかしよりこの山に、かかるすがたの

見えざりつと、あさましがりし

四月一日にかへりて、六月十日の程に

筑前の守の辞せしになりたりし

こそ、げにいひけるにたがはずも

と聞こえしか。

これは哀れなる事にはあらねど

御嶽のついでなり(114段)

隆光は宣孝長男(973年生まれ・

母は紫式部ではない人)

親子で派手派手な服装で金峯山に

参詣したため皆

「あさましがりし」:唖然としたとびっくり

でも参詣のご利益はしっかり

頂けて良かったね、という

内容ですが

宣孝の描写で笑いを

とろうとしてますね

最後の「ついでなり」が

また効いてます笑

問題は

娘の賢子が『枕草子』をきっと

読む日が来るって事じゃないかな

幼児期に亡くしたから記憶には

無いだろうけど

ステキな父・宣孝キラキラの姿を

賢子に想像させ、良いイメージキラキラ

を抱いてほしいのに真顔

だから嫌だったんじゃないかな

なんてことしてくれんのよとむかつき

賢子のパパは

2枚目なのよ

3枚目じゃないのよ!!

と。。。

写真も無い時代だしカメラ

 

・・・⑩の2に続きます・・・

お読みいただきありがとう

ございましたお願い

 

道長も1007年に金峯山参詣してます

その時納めた経が出てきたとの昨年の報道

これは、とても丁寧な字ですね下矢印