一番の親孝行は生まれた時
ASD叔父は昭和20年代半ば生まれ。
高校教師の父親、農業担う母親の元兼業農家の長男第二子。私の母である姉は5年上となり二人姉弟、祖父母とお嫁に行く前の父親の妹と共に生まれた頃は7人家族となりました。
沢山の兄弟の中「勉強なんかせんで働け!」の両親の元、強い意志を貫き教師になり、そのお給料を見て初めて親は下の男子達の進学も賛成するようになりました。女子は祖父の20年近く後に生まれた子だけが進学し、先生となりました。男尊女卑そのもので、男の子の名前は立派な漢字名なのに、女の兄弟は皆カタカナ。10年も離れた兄弟達の名前は皆祖父が考えたそうです。名実共に、家の中においては、長男である祖父が教師の道を切り開き、弟達は地元国立大やその下の二人を東京大学に行かせたのも長男である祖父の親への説得から始まる尽力の賜物であった様です。
そうして、弟達は皆、祖父の満足の行く進路を辿り、教師や校長、大企業で偉くなり、皆立派に地元から旅立っていったのでした。
ところが、肝心の息子。これが…今ならハッキリと最初っからASD寄りの発達障害だったのでした。これが今回の主人公軽楽逃(ケイラクトウ仮名)となります。
祖父38祖母31の時に生まれ、当時は戦後で年頃の若者が戦争で亡くなった為近親結婚も珍しく無かったといいます。(親が従兄弟同士)
祖父は家長として君臨し、祖母は機嫌を伺いながら沢山の旦那の兄弟達の世話や農業に明け暮れる中、夏の終わりに待望の長男は未熟児として生まれたのでした。「冬なら生きれなかった」と親戚の叔母さん方が皆言っていたそうです。「運が良かった」と。果たして…?
かくしてこの待望の長男は、生まれた時に最高の親孝行を全て終えたのでした。
✱今後軽楽逃と仮名でお話を進めて参ります。
。*・。.。・*・。.★
next→2人目の子供なのに…