スーパーの入り口で、床に置かれた「値下げ」表示のバケツにぽつんと一本の花束。
セロファンの中にきつく閉じ込められた「白」は、離れたところからも目を奪い、一度は通りすぎたが、やはり戻って買い物かごに入れずにはいられなかった。
一枝に二輪の花と一つの蕾。添えられた白の小菊も、それを引き立てている。

純白の芍薬。

一輪の中に、妖艶さと清らかな気高さが融合し、爆発している。
圧倒的な美しさは、似ている牡丹と同じく、はかない。
温度や湿度が高まる今の時期、室内でも花はあっという間に開く。
そのあまりにも繊細かつ豪華な花をとらえる自信はない。けれど、小さな自室で散り果てるだけでは申し訳ない。

どんな花嫁衣装より手の込んだ、艶やかな花弁を、不器用な手で必死に辿る。
格闘しているうちにも、花は音もたてずに開き、変化してゆく。
さっき描いた一枚の花弁を、もう見つけられない。

一輪の芍薬と過ごす時間は、時計では計れない。
花が開いてきたからだろうか。ふと、甘い香りがした。
芍薬の香りの香水が商品化された時、首を傾げた。香水になるような強い香りの記憶がなかったから。
誰かのイメージから作った香りなのだろう、と思っていた。嗅ぎに行くほど興味がなかった。
今、白い芍薬の花芯に鼻を寄せるとー 確かにほんのりと、芳香を発している。今まで芍薬は庭で楽しむもので、こんなに近く、長く接することがなかったから、気づかなかったのだ。
しかし、やはり香水のもとになるとは思えない。はっきり記憶することは出来ないほど、ほのかで自然な香り。
もちろん、私が買った芍薬以外にもたくさんの種類があり、その中には強い芳香をもったものもあるかもしれない。またいくつもの場所を経てきた花が、強く香るはずもない。だが確かに香った。
それは四苦八苦して自分の美を、命をとらえようとしている人間の私へ、芍薬からの言葉、または小さな笑い声だったかもしれない。

こうして書いていて、ふと気づいて調べると、それはやはり「薬」としての長い歴史を持っているのだった。(漢字とはなんと優れた文字だろう)

麗しい大輪花、それを支える切れ込みの入った濃緑の葉、さらには薬効を持つ根まで持っているとは。
こんな女性、いや、人間は存在するだろうか?
花だから数百円で売っている。

先日、家族で墓参りをしたとき、墓前に花を供えた家人が思わず感嘆の声をあげた。

ーああ、なんて綺麗なんだろう。

それもまた、深い紫桃色の大輪の芍薬だった。
翌日には萎れてしまっただろう。
しかし、美しいと感じた花を亡き人のために選び、供え、祈る中に、深い喪失の哀しみが少しずつ癒されていくのを感じ、また願う。

純白の芍薬は、いつしか「私の色」に染まってしまった。

一輪の花の深さは、はかりしれない。

(使用画材:色鉛筆、水彩、クロッキー紙)