通り過ぎようとして、やっぱり足をとめて、じっくり見つめずにはいられなかった。

散歩でよく立ち寄るお寺の、本堂の隅に見つけた三人組。

パターン化された形は、以前どこかで見たことがある。可愛らしさを第一にした現代的なお地蔵さん。
戯画のように誇張された笑顔は、非人間的だーしかし、ごく稀にこのような顔をした人に出逢うことがある。
一瞬の表情ではなく、地の顔として。

福相、というものだろう。
よく、接客などで好印象を目指す女性へのアドバイスとして、「意識して口角を上げましょう」というのがある。基本の表情を笑顔にする、ということだ。

このお地蔵さんのような笑顔は、そんな小手先のテクニックではない。目も頬も、いや、全身が微笑んでいる。
一方で、その正反対の表情が基本になってしまっている人もいる。駅にはありとあらゆる人間が集まるが、電車の中では、その人たちど一定時間、近距離で過ごす。向き合った席では、見ないふりをしつつ、嫌でも観察せずにはいられない。特に一人で黙って座っている人の顔には、その人自身が意識しない素の、基本の顔が浮かんでいる。眠ったり、スマホを見ていても、それもやはり基本の顔である。つまり、場や相手に合わせて作っていない。
たまに、物凄い苦痛を耐えているような深い眉間や額の皺、への字口の人がいて、ぎょっとする。身体的な苦痛なのか、精神的な苦悶なのか。全く知らない人なのに、さぞ辛い人生、生活なのだろうと、いろいろ想像してしまう。見てはいけないものを見たような気がする。人生の過酷さ、不幸があまりにも深く刻まれ、言葉がなくとも、その顔が語っている。ひやり、ぞっとする顔である。自分の顔が見る者に不安や同情、恐れを与えているとは、本人は自覚していないだろう。
そういう自分も当然、見られている。
街中の鏡に映る顔を「抜き打ち」でチェックしたり、自室で手鏡でじっくり見てみる。しばらく前に、眉間に二本、ハの字にうっすら皺があるの気づいて、焦った。いろいろ表情を作ってみて、何か気に入らないものを見たり、不快を感じて顔をしかめる時に出来る、いや自分で作る皺だと結論した。親しい人に対して半ばおどける反応で、深い意味はない。今のところ、福々しくも痛々しくもなっていないようだ。日々、皺は増え、輪郭はたるむか萎む。あと十年、いや五年したら、どちらかはっきりするだろう。

人生の終わりに、このお地蔵さんのような顔になっていたら大成功と言える。
どうしたらなれるだろうか?

苦労や哀しみが少なければなれるとは思わない。しかし、ただ苦労すればなれるとも思えない。人生に疲れ、恨み、あきらめ、惨めな顔になるのは簡単な気もする。

幸せ顔も不幸顔も、若いときには持てない顔だ。長い年月を生きた人にのみ、あらわれてくる。化粧や服装では変えられない。

生きていれば、この世の、つまり人間の不完全さを見ないではすまない。自分と他人の中に繰り返し、繰り返し。その失望、怒り、あきらめが、悲しい顔を作るのではないか。

同じ体験や思いをしても、やっぱり人生は美しい、素晴らしいと思えるか。

一世紀近く生きた御老人たちを私達が感嘆、賞賛するのは、長く生きた年数ではなく、その「生きる」、いや「生き抜く」天才力ではないか。つまり、あの戦争や災害を生き抜いて、今も笑える驚異の強さ、ポジティブさ。
彼らはただ人間として当たり前に食べ、飲み、仕事して、眠り、家族と、或いは独りで生きてきた。
ただ生きる。それは大変なことだ。しかも一世紀を。
市井の中にいる「生きる」天才。
その顔はもはや神々しい。
性別や人種、身分を超えた美しい顔。
小さなことに大きな深い喜びを見つけられる人。
一日を大切に丁寧に生きる、そこに喜び、幸せを感じる人。

たぶん、信じられるのだろう。
この世は、人間は、すべては素晴らしいと。理屈ではなく、内から湧いてくる感覚。
おおらかで謙虚。感謝の心。ユーモアも生き抜く大きな力だろう。
そして一番大事なことー愛を知っている。
生きることに決して飽きない、子供のようで長老のような不思議な人々。

社会に出たばかりの若いとき、仕事や私生活で追いつめられ、いつも険しい顔をしていた。周囲の人が心配するほど。
そんな中、或る人が私にそっと言った言葉を今も思い出す。
「…さん、とってもきれいな笑顔なのに…」
笑わないのは勿体ない、と。
優しい一言だった。
私と同い年のその人は、ホテル仕込みの物腰と笑顔が洗練されていた。だが作り物ではなかった。一緒に働いていた間、彼女の歪んだ顔を知らない。その裏に苦悩や涙がなかったはずはない。

身近な人が二人、辛い体験の中で笑顔を失い、取り戻せぬまま逝った。どれほど笑わせようとしても出来なかった。どんなことよりも哀しく悔いが残る。
もし、笑えたならー彼らは今も生きていたかもしれない。

口角を上げる必要などない。
微かに唇の両端が弛む、それだけで充分に完全な笑いなのだ。
その人が幸せである証。
演技の完璧な笑顔より、ぎこちない、小さな、自然な笑顔。豪華な造花より、傷だらけで風に揺れる、野の花がいい。

それは必ず他人にも伝わる。自分も周りも幸せにする。

「笑」という字は笑っている、と感じるのは日本人の感性だろうか。
その漢字は「竹」と「犬」で出来ており、えむ、ほほえむ、喜んで笑う、あざけり笑う、などの他に、「花が開く」という意味がある。

笑顔は、人が自分の顔に咲かせる花である。
笑ったら、一本花を贈るようなものかもしれない。
相手に。自分に。
贈ろう。

それを重ねていったら、こんな顔に少しは近づけるかもしれない。いや、きっと仙人みたいなお爺さんやお婆さんはそうしてきたに違いない。

マイケル・ジャクソンの葬儀でマイケルの兄ジャーメインが弟の愛した曲として歌った「スマイル」。それがチャーリー・チャップリンの作曲と知って驚いた。
マイケルを含め、たくさんのアーティストがカバーした。
彼を天才か化け物のどちらかで呼ぶしかない人間の醜さを嫌というほど見せつけられ、尚、笑顔を忘れまいとしていたマイケルのカバーで。
きっと今日も誰かが聴いて、小さな花が開いている。

SMILE Michael Jackson ≪ 日本語字幕・和訳≫マイケルは複数の名曲を作っていますが、 マイケルの一番好きな曲は自分の曲ではなく、 大好きなチャーリー・チャップリンが作曲したこの曲だったと言います。 彼自身つらい時にも、 この歌を口ずさんでいたのかな。 いつでも、どんな時でもSmile・・・ 彼がいなくなってとても寂しいけれど、 笑顔で生きて行かなくては・・・リンクYouTube

 


(使用画材:筆ペン、ファーバーカステル・ピットパステル、クロッキー用紙)