自宅を出て数分のところに、「小さな村」と呼びたいような住宅街がある。
いわゆるテラスハウスというタイプに分類されるのだろう。二階建ての家が横に繋がっている。その棟が四列くらい並んでいて、間に細い遊歩道があり、各家の玄関に続いている。
全部で五十戸くらいだろうか。三十年はたつだろう建物は、当時は最新のスタイルだったに違いない。今は高齢者が住民の主体に見える。しかしこの住宅街は古いとか汚い、というイメージはまったくない。というのも、家屋それぞれに小さいがきちんと前庭がついていて、それがほとんど皆、こまやかに手入れされて、一年中いろんな花を咲かせる。樹々は大きく育ち、建物をほとんど包んでいて、心地よいプライバシーを作り上げている。新しい住宅、または公園のようなきれいさではなくて、一人一人、異なる人間が長い間、毎日、毎年、手入れして、愛でている、生きた庭である。当然、各自の好みによって植える植物は違う。それがみんな隣り合って、競うように見せているので、今でいう「オープンガーデン」になっているのだ。もちろん、庭によって力の入れ具合は違う。しかし人それぞれに好みが出るので、数は少なくても、他の家にない植物を植えていると、見てしまう。庭の間には垣根はなく、境界がはっきりしていないので、隣り合った庭の植物が混じりあってしまっていることもある。ある二軒の間に咲き始めた薄黄色のモッコウバラは、両方に平等に、また少し違った風に垂れて、それぞれの入り口を飾っている。二軒が仲良く、剪定を相談してやっているのだろう。今年もきれいに咲いたね、と言い合って、喜ぶ笑顔が見えるようだ。
ある家はクリスマスシーズンには、外に面した窓をカーテンで覆ったりせずに、アメリカ人のようにおおらかに室内の立派なクリスマスツリーを見せびらかす、いや、見せてくれる。またある家は小さな庭の大半を占めてしまう枝垂れ梅を植えているが、初春の花がない時期に、その梅の見事さといったら、まったく梅の樹が、主人の心意気に全身で応えているようにしか見えない。 
棟の間に引かれた遊歩道から、各家の庭を見ながら、歩いていくと、突き当たりには東屋があり、その下には今はパンジーが咲いている。先月は水仙だった。敷地の一番奥には子供のための小さな遊び場もある。住宅の庭だけでなく、空いたスペースにもたくさんの花や樹が植えられている。鈴蘭がひっそり生える灌木の陰は五月には見逃したくない。
そんな風に密接に出来ている集合住宅は、隣人とのトラブルも避けられないはずなのに、その中を歩くと住民たちが長い長い年月、仲良く付き合い、助け合って、美しい共同体を作り上げたことが、誰に聞かなくともよくわかる。全体に漂う「気」のようなもの。
夕暮れ時には、昔ながらの家庭料理の、醤油やみりんで何かを煮ているおいしそうな匂いが漂ってくる。誰かが大切な家族のために作っている、あたたかい、懐かしい、少し切ない日本の夕げの匂い。
本来、立ち入るべき立場でない私のような部外者すら、誘われて、スーパーに行くにもその中をわざわざ通っていくのは、きっとそこに暮らす人々の人間らしい、優しい心を感じるからなのだ。  
そんな風に、一年中、楽しませてもらっているのに、住民の誰かを見かけることは滅多になく、通りすがりの称賛の言葉ひとつも言えていない。
昨日も細い遊歩道を花々を楽しみながらゆっくり歩いていくと、ふと、ある家の玄関脇の窓に、猫が一匹座っているのを見つけた。
その日は別の場所で、別の猫に最大警戒の体勢をとられたのだが、この猫は、私が立ち止まって、今日の発見である、庭の一部になっている猫、を眺めるのを許してくれた。

この美しい小さな村にいれば、猫だって人間と同じように、警戒心をといて、和やかにくつろがずにはいられないのだろう。

(使用画材:水彩、ワットマン紙)