今回のテーマは
差別と区別について









このテーマは別視点でもUPしたいと思いま










区別とは、違いによって分けること。また、その違い。くわけ。   広辞苑より引用









明確に示すことができる基準をもとに
分けられることが該当するように思います









ここの基準というのは、
端的に言えば
誰もが納得するよねっていうモノサシ









運動会の徒競走やマラソン水泳など
タイムを競うものは明確ですよね

学校のテストや共通テストなど
点数を競うものも明確です

さらに
中学校の内申点や高校受験、
フィギュアスケートや柔道など
評価の基準が事前に明示されているものもあります

いずれにしても
誰もが納得できる基準ですよね









では、差別とはなんでしょう?





 



差別とは、差をつけて取りあつかうこと。わけへだて。正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと。     広辞苑より引用








不当に扱うこと

これが区別とは違う点です










かけっこで1位を取ったのに
教師の好き嫌いで順位を変えられたら
誰も納得しないよね

これは紛れもなく差別です









差別はいけないことだとよく耳にしますが、
白人警官による黒人への暴行や
ジェンダーの問題など、
現実社会は差別まみれ









テレビのコメンテーターさんなど
幼少期からの教育が大事だと
たくさんの方が仰られておりましたが、
具体的な策を提示し
実際に動いた方は
いらっしゃらなかったように思います








「あおもりけん」大仏様なみに癒される












何ヶ月か前のことになりますが
この映像を見て衝撃を受けました







 

青い目、茶色い目

















1968年にアメリカの小学校で行われた
ジェーン・エリオット先生による
人種差別実験です









この実験の良いところが3つあります

①2グループにわけ、差別とは何かをそれぞれに実体験させたこと

②差別体験のあと、どう感じたか、今後どうするか、子どもたちに考えさせ選択させたこと

③その実験を親にも見せていたこと








これは本当に良い教材!

人種差別だけでなく
差別そのものが日常に溢れていることがよくわかります








良い点がある一方で
わたしが最も注視した点がこれ








教師の一言で最も簡単に
差別が生み出されたということ









映像をみるとよくわかります









優遇された子どもたちが
どんどん目つきが変わり傲慢になり、
ひとを見下し始める様子が
明らかにわかります









また、差別を受けた子どもたちが
どんどん表情が暗くなり
元気がなくなる様子が見えます










翌日、立場を逆転させると
優位になった子どもたちが
元気を回復するだけでなく、
前日あれだけ嫌な思いをしたはずなのに
傲慢になり見下す側に回ってしまうのです











はじめて見たとき、
非常にショックを受けました










さらに問題と感じた点が2つあります

①子どもの自己肯定感の成長を阻害

②誤った価値規範を植え付けられる危険性








この2点により、
子どもの人格形成に
大きく影響してしまうということです











恐ろしいの極みです









逆境を乗り越えていく
本来の「たくましい子」を育てるためには、
幼児期(幼稚園児)・学童期(小学生)・青年前期(中学生)の間に、
アイデンティティ
確立することが大切です









アイデンティティを確立するためには、
自己評価と他者評価が
合致することが不可欠









自分はこれが好き
自分はこれが嫌い
自分はこれが得意
自分はこれが不得意、、、


あなたはこれが好き
あなたはこれが嫌い
あなたはこれが得意
あなたはこれが不得意、、、









そういうことが自他ともに合致していれば、
精神的安定につながります







しかし、
自己評価と他者評価がチグハグだと
精神的安定を保つことができません







自己評価だけではなく
差別のない中で
公正に評価されること
という他者評価もとても重要なのです








差別のない中で
公正に評価されることが
子どもたちの成長を促すのであれば、
それをするのは大人側の務めだと思います








青い目、茶色い目の実験は短期間です









あれが月単位、年単位になった場合は
どうでしょう










教師の基準
子供たちの基準
親の基準
社会通念上の基準
法律という基準etc







それらの間に齟齬が生じてしまえば、
子どもたちは
何が正しくて何が間違いなのか混乱します









混乱はいずれ不満となり、
結果的に辻褄の合わない事をいう大人の話など
聞く耳を持たなくなってしまいます









学級崩壊
家庭崩壊











おかしな話ですが
この中で生まれる規範があります

自分で考えることを諦めて
世の中に流されるということ

不平や不満や怒りにこそ
メタ知識が含まれているのですから、
自分で善悪を考えることって
とても大切なことです

人類の成長や発展には
考えるというチカラが不可欠のようにおもいます








前述しましたが、
現実社会では
何かあるたびに
差別はいけないと騒ぐけれども
差別まみれです









差別はいけないと教えるわたしたち大人こそ、
差別をやめる努力をし
子どもたちに
その背中を見せなければなりません










躾としての
親の説得だけでは足りません

おじいちゃんやおばあちゃん
近所のおじさんやおばさんなど

子どもの周りにいる大人たちこそ
差別をしていない様を見せることが大事です






そして
子どもたちが1日の大半を過ごす
学校内も例外ではありません

教師も
差別をしていない様を
手本として見せなければなりません









教師の言葉は
子どもたちに大きな影響を与えます








教師の言葉や行動は驚くほど記憶に残り
子どもたちの一生に影響を与え続けます






 

◎「おつかれさん」ちょっとした励ましの言葉

◎「ありがとう」「助かった」感謝の言葉

◎「大丈夫?」気遣いの言葉

◎うなずきによる同意

◎クラスみんなで頑張ったあとの先生の笑顔

◎悪いことをした同級生への叱責や激昂した表情

◎先生の悔し涙

◎卒業式の先生の涙





わたしにとっては大切な思い出








何かに迷ったり困ったとき
恩師のことを思い出すのです











良い教師は
厳しい中にも愛情たっぷりです









そして
子どもたち自身が
それに気がついています









ダメなものはダメ
良いものはいい









そういうシンプルなことが出来ている人間は
大人であるわたしたちも
信用・信頼できますよね








善悪がわかるということは
社会通念上の基準がわかっていること

基準がわかるからこそ
他人様との違いを知ることができる

違いは領域

他人様の領域を知ることができるからこそ、
人間の曖昧な部分や揺らぎのようなものをも
知ることができるようにおもいます

多様性を受け入れていくとは
違いを認め合うことではあるけれど
何でもオッケーということではない

相手との違いを認めることと
相手を自分の領域にそのまんま受け入れることは
別次元の話なんだけど、、、

、、、上手く言えないなぁ
時間ができたらゆっくり考えようっと











子どもたちだって
おんなじですよね












教師の個人的感情のもとでの
特定児童(生徒)への優遇や差別が、
子ども間トラブルのきっかけとなることも
しばしばあります









学年集会など大勢の前で
特定の児童をなじったりイジる教師もいます

イジリのあとって
イジリの何倍もフォローしなきゃならないのですよ

誰かにからかわれていないか
ぞんざいに扱われていないか
人間関係が壊れていないかなってね

最後までその子を守り切れる自信があるのか?
教師は考えてから行動しなくてはいけません

できないなら
最初からやるべきではないのです

教師がトリガーをひいていじめを誘発させちゃあ
お・し・ま・い・Death
(ちょっと古いか)











小学校や中学校の学生生活は
一生に一度きり










高校や大学のように
やり直しがききません













差別をするということは
枝葉を伸ばしていこうとする子どもたちの
葉をむしり、枝を折る行為









差別を繰り返すということは
悔しい気持ちを奮い立たせて
新芽を出した子どもたちに対して、
これでもかと言わんばかりに足で踏みつけ
タバコの火を足で消すように潰す行為








大人が子どもに対して
やってもいいことでしょうか








自分の発信内容に対して責任を持ち、
それを常に意識して発言・行動するのが
プロフェッショナルだと思うのです









社会に出れば
差別だらけ理不尽だらけです








でも、
小学校や中学校で
親以外の大人から得た公正な評価は
一生もの









辛いとき、苦しいときの
大きな大きな心の支えとなります












教師が教師という枠を越えて
誰かの恩師になるということは
そういうことなのだろうと思います











これは余談ですが、、、







研究という名を出せば
何をやっても許されると思いますか?








その研究によって
不利益を被る人が事前にわかっている場合
その研究はコンプライアンス違反の可能性が高い









病院の倫理委員会で理事を務めていた方に
以前問われたことがあります
 

死産をした女性に対する看護研究として
死産に関するインタビューを行うことについて
君はどう思うかと

自分が死産をした立場だと仮定すると
看護師さんの役に立ちたいと思う一方で、
インタビューに答えることそのものが精神的な苦痛になる

でも最終的には協力すると思うと答えました


理事はうなずきながらこう言いました

病院の中では、患者は立場上弱者だ
病院側がどれだけ対等に扱っても
患者側が抱く気持ちは変わらないと知るべきだ

学校も同じ

弱者は空気を読んで、
やりたくなくても協力することは容易に想像できる

たとえ対象者の承諾を得たとしても
社会通念上、明らかに精神的苦痛を伴う行為を
研究として許可することはできない

研究意義が人権を上回り
人権侵害をすることなんてありえない

コンプライアンス違反は見逃せないんだ

どんな素晴らしい着眼点を持っていても
研究意義がどんなに人類に役立つ可能性があっても
越えてはいけない一線がある

一線を越えたら裁判沙汰だ

そうなって困るのは病院、組織そのもの

コンプライアンス違反は
自分だけでなくその組織のイメージをダウンさせるからね

倫理委員会はリスクマネジメントの役目も負う

教師や教授、医師だって
セクハラやパワハラと捉えられないよう
慎重に発言や行動をしなければならない

権力を持った時ほど清廉潔白が1番

倫理は法律のベースだ

研究をしたいのならば、
倫理の概念を理解しておくこと

研究者の基本だよ















研究のためにという名目で
差別は許されるのか









いいえ、許されません








各組織の倫理委員会が
正常に機能していれば
社会通念上の不利益を被る危険性について
適切に審査され、
人権侵害となりうる研究を
許可することはないでしょう










その組織としての
倫理観や法律遵守に対する姿勢が
問われているということですから






  



法律は誰のためにあるのか
倫理は何のためにあるのか










親も含めて子どもと接する大人が
折に触れて
自分に問うことが必要なのかもしれませんね















さて、
だらだらと書きましたが主張はこれ











差別はいけないと
説くだけではなく
大人が自ら行動で示そう