自分にとって編み物の醍醐味は

エジングのレース編み^^

 

 

だから細い糸でストールやショールを

編むのが好きなのだが・・・

 

 

帽子にだってレースエジングしちゃうもんね♪

 

 

模様編みのストールや帽子、スカートの裾等

規則正しく編み上げたモノは

そこまで編んできた目数に従って

エジングの一模様の目数を割り出せば

端っこで模様が中途半端になってしまわずに

綺麗に仕上がるのは当たり前

 

でも今回のこのストールのように
テキトーな目数で編み始めたモノだと
目数が割り切れなかったりして
上手く模様が収まらなかったりするるる~

 

 

そういう場合

まず元の目数のままを拾いながら

鎖編みと細編みで

何周かネット状に編んでく内に
角の部分での増目があるので
一模様の目数で割り切れる目数に
一周の目数がちょうどそうなる時があり
そうなったら次の段から
レースエジングを編み始めればOK

 

 

ちょっと手間ではあるけど

出来映えの美しさは格段に違うのだ!

 

レースエジングに到達するまでの

ネット状の部分だって

なかなかに美々しい見映えだ!!

 

それか

つい先日仕上げたストールのように・・・

 

 

フリル状のエジングにするなら

端っこの部分で融通も効くので簡単だがねw

 

更にラグジュアリー感も増すしねヽ(´▽`)/

 

今朝、目が覚めた時の足元の状況がこうだ(*^^*)

 

さて

スウィフトとデフォーについては

1726年から話を始めよう

 

それは『ガリヴァー旅行記』が出版された年で
著者ジョナサン・スウィフトは

1667年生まれなので59歳の時だった

 

 

スウィフトはイギリス人を両親に持ち

アイルランド移民の子としてダブリンで生まれ
大学までダブリンで教育を受けた後は

司祭職を務めてて
ロンドンに上京したのが1707年で

スウィフトは40歳になってた

 

産業資本家(ブルジョワ)が台頭してきて

政局も激変期を迎え
王家から議会へと国家権力が移行


スウィフトより1世代前くらいから
市民革命の波が押し寄せ

絶対主義は押し流されつつあった

 

 

そして1642年~49年

 

遂にピューリタン(清教徒)革命によって

イングランド王だったチャールズ1世は処刑され
郷紳(ジェントリ)のオリヴァー・クロムウェルが
共和政(コモンウェルス)の名の下に

護国卿(ロード・プロテクター)として
軍事独裁政権を強行

 

オリヴァー・クロムウェル

 

そのクロムウェルも1658年に亡くなり
変わってクロムウェルの息子のリチャードが

護国卿となるも無能・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ


翌1659年には辞任する羽目に陥り

政局は混乱するるる~

 

混乱に乗じて

国王に即位したチャールズ2世は

処刑されたチャールズ1世の息子だったが

政権を掌握するものの

議会とは真っ向から対立した

 

チャールズ2世

 

その議会の中にもまた派閥があり
英国国教徒がトーリー党で

非国教徒がホイッグ党だったが
2党分裂の原因は

王がカトリックを容認したのに対して
公職就任者を国教徒に限定したコトだった

 

1685年にチャールズ2世が亡くなると
今度は弟のジェームズ2世が

議会にも国民にも反対されつつ即位

 

ジェームズ2世(ゴッドフリー・ネラー画)


ジェームズ2世には跡継ぎの男子がおらず
放っておけば断絶するしかなく

周囲は安心してたのに乗じたのだなw

それが3年経った1688年

ジェームズ2世に跡継ぎが生まれてしまい

議会は慌ててオランダから

オレンジ公ウイリアムと妻メアリを

国王夫妻として招き入れ
ジェームズ2世は退位させられる前に

自らフランスに亡命

こうして無血で王位が移行したので

名誉革命と呼ばれるワケだが
この名誉革命の時

スウィフトは22歳だった

 

オレンジ公ウイリアム

 

スウィフトがロンドンに上京したのは
前述の通り1707年で40歳だったのだが
1701年に発表した政治パンフレット(※)が
ホイッグ党に認められたので

その時に上京を決意してると思われ
『アテネおよびローマにおける貴族・平民間の抗争・不和に関する論考』

 

ところがスウィフトが上京して

実際にロンドンで暮らすようになると
ホイッグ党には失望・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ


反対勢力のトーリー党に就いて
機関紙への執筆などして

政治活動に貢献するも
トーリー党が1713年にスウィフトに与えた職は

聖パトリック寺院(※)の司祭長で

なんとダブリンへ逆戻りとはヽ(゚∀。)ノ
教会(church)でなく寺院(cathedral)なので、カトリックではなく英国国教会なのだな

 

 

翌年、ダブリンに戻ったスウィフトは

イギリスで政治家になる野望が打ち砕かれ
47歳で政治活動から身を引いた


つまりこの時点ではまだ

スウィフトは小説家ではなかったし
政治活動に参加してたのも

著述においてでしかなく

本業は基本的に聖職者だったワケだヽ(゚∀。)ノ

 

但し、むしろ本業が何であれ

この激動の時代に執筆活動をしてて

ましてや政治を諷刺してたら
それは厳しく取り締まられたりもしただろう

 

きっと当時のイギリスには

そうした取り締まりにも動じず

更に底辺の生活苦にあえぎながらも

著述による政治活動をしてた者が

大勢いたと思われ

 


そして政権が変わる度に

数多の政治・政党の論文は風化し
それ以上に書いた者は忘れ去られたので

『ガリヴァー旅行記』がなかったら
スウィフトもその一人になってたはずだ

 

一方

『ロビンソン・クルーソー』が出版されたのは

1719年・・・

 


著者ダニエル・デフォーは

この時なんと59歳で

奇しくも『ガリヴァー旅行記』出版時の

スウィフトの年齢と同じなのだった!

 

デフォーは1660年生まれで

名誉革命の時は28歳だったが
20歳から商売を始めて

24歳で結婚

 

と、ここまでの人生は概ね好調だった

 

デフォーが25歳の時にチャールズ2世が死に
ジェームズ2世の即位に反対して

チャールズ2世の庶子モンマス公を推す一派に参加して
危うくモンマス公とその支援者と共に

絞首刑になるトコロをなんとか免れたものの
こうした政治に関与した活動に拘わる内に

32歳で破産。(゚д゚lll)ギャボ

 

モンマス公ジェイムズ・スコット(ウィレム・ウィッシング画)

 

34歳から煉瓦商になって

商売が回り始めた矢先
また政治活動に拘わるようになり

執筆しだしてしまう。(´д`;)ギャボ

 

この辺りまではジャーナリストと言えなくもナイが

本業は明らかに商人であった


トーリー党のハーリーの下で

補佐を勤め始めたのは40代になってからで

彼もまた『ロビンソン・クルーソー』がなかったら
知られざる人物として

歴史の闇に埋もれてしまっただろう

 

ちなみにデフォーの最期は
70歳にして失踪して

翌年に孤独死してるのを発見されたそうだ(゚*゚;)