「全12章に分かれてはいても
各章にタイトルがナイのは
タイトルのつけようがナイからでしょうね」
昨日、そう書いておいてなんですが
各章にタイトルをつけて
概要を紹介しつつ解説してみましたw
1番慣れ親しんだ岩波文庫の『自省録』では
Marcus Aurelius Antoninusが
マルクス・アウレーリウス・アントーニーヌスと
長音がしっかり入ってますが
記事中ではマルクス・アウレリウスとして
他の固有名詞も長音は無視します
例>ソークラテース→ソクラテスとします
◆第一章 少年愛禁止
後から付け加えたと見られる第一章は
主観のすり替えを指導してくれた銘々に
一言添えたいわゆる Special Thanks です
自身の家族、家庭教師、友人、先達、神に対して
「こんな教えを授かって光栄です」
との賛辞が述べられてます
以下に母親の項を引用しますが
父親を幼くして亡くしたマルクス・アウレリウスの人格形成は
母親に拠るトコロが大きいんですね
ましてや身体も弱かったとなれば
母親との結びつきは予想以上に強いんです
何においても「母親に認められたい」って気持ちが
マザコンと断言できるレベルにあったコトは否めナイ事実です
母親からは、神を畏れること、および惜しみなく与えること。悪事をせぬのみか、これを心に思うさえ控えること。また金持ちの暮しとは遠くかけはなれた簡素な生活をすること。
を教えられたと記されてますが
他の14人と1柱に比較して
続く第二章からの自省の記述の内容は
この母親からの教えにこそ見事に合致してるんです
誰にもへつらう必要のナイ皇帝の立場にいても
「質素」と「謙遜」が信条であったのは
偏に母親の教育の賜物でしょう
それにしても不思議なのは
マルクス・アウレリウスが8歳の時に死んだ父親の言です
少年への恋愛を止めさせること。
とありますが
こんなコトを8歳までに父親が息子に諭すとしたら
逆に当時はどれほど少年愛が蔓延してたのかと驚愕しますw
現代日本では父親から少年愛を禁じられる8歳児なんて
絶対いませんからね。(゚д゚lll)ギャボ
◆第二章 内なるダイモーン
死の概念から宇宙の存在を推し量り
その宇宙を司る自然の摂理が神であるとしてて
その自然の一部である人間にはダイモーンが内在してる
そんな彼の基盤となる世界観が述べられます
当初はダイモーンが意味不明でした
古代ギリシアと古代ローマでは
ギリシア語とラテン語と言語も違ってるので
ソクラテスの言うダイモニオンがそのまま当て嵌まりません
でもキリスト教のバックグラウンドがナイので
ギリシア神話と原初のシャーマニズムの感覚があって
世界と自身を
マクロコスモスとミクロコスモスと捉えてます
自分も近似の感覚ですから
これは日本人にこそわかりやすいかもしれません
宇宙や自然の摂理が神であって
そこに存在する自身
そして自身に内在するダイモーンは
常に神に共鳴してる
そんな捉え方ですね^^
科学と哲学と神学をバランスよく結び付けてます
しかも自然科学と自然哲学ですから
見事に合理的です
そうして合理的な主観の中に
その世界観を構築(しようと)してて
その上で「全ては主観である」と世界観を決定付けてます
言葉で説明すると
ちょっとパラドックスぽくなりますが
簡潔に表現すれば強固な性善説信奉ですかね
ストア派哲学のストイックさを地でいってます
◆第三章 アレクサンドロスもカエサルも嫌い
世の無常を切々と訴えます・・・
例えにアレクサンドロス大王が用いられてますが
ヒポクラテス、ポンペイウス、カーイウス・カエサル(シーザー)、
ヘラクレイトス、デモクリトス、ソクラテスらも併記されてます
これだけ偉業を果たした者を並べ立てておいて
多くの病人を救ったり
逆に累々たる屍の山を築いたり
宇宙の摂理を解いたりした者たちも
その魂を宿してた肉体については死して滅した(分散した)
要約すれば「常ならず」としてます
中でもデモクリトスは
「万物は流転する」と自らが無常を説きながらも
自身もそれに習って流転したワケですから
皮肉のようでもありますね
またアレクサンドロス等の英雄視される武将には
激しく嫌悪感を抱いてるのが
次のくだりから察するコトができます
いくたびも都市全体を殲滅させ、幾万もの騎兵や歩兵をこなごなに切りまくったが、
そうきたかヽ(゚∀。)ノ
アレクサンドロスやカエサルは
神代の英雄に替わって人々を支配しようとした実在の人物ですが
ローマ皇帝である自身も同じような立場なので
それを痛切に批判してるのは
彼が戦陣でよっぽど不愉快な思いをしてた
と察するコトができます^^;
◆第四章 エピクテトスは心の師
過去の哲学者や皇帝などを列挙しながら
「死によってその全てが無に帰した」
と、繰り返し述べつつ
死後の魂についても考察してます
『オデュッセウス』の一節が引用されてて
姿も見えず、知る者もなし
とあるんですが
これは父王オデュッセウスの消息が不明になり
息子のテレマコスが女神に対して
「いっそ死んでくれてた方がまだマシだ!」
と訴えるセリフの一部です
なぜなら長期にわたる父王不在は
息子にとって単に寂しいだけのモノでなかったのです
テレマコスの母にして
オデュッセウスの貞淑な妻ペネロペイアに
言い寄る不埒な輩どもに
屋敷が占領されてたのです
無頼漢が常駐してて
勝手に飲み食いをしたり
母親が言い寄られてたりする有り様に
非力な幼い息子は心を痛めてて
その傷心を吐露してるんです
マルクス・アウレリウスも
オデュッセウス程ではありませんが
確か息子のコンモドゥスとは
7年ぶりとかで再会したりしてて
ローティーンの最も難しい年頃をすっ飛ばしてます><
しかもペネロペイアと違って
不貞の噂もあった妻のファウスティナにして
コンモドゥスは剣闘士との不義の子だとも囁かれてましたから
この親子の隔絶と確執は相当なモノでしょう
全編を通して子供に対する記述はありませんが
もしかするとこの一節はそうかもしれません
それも考え過ぎで
単に消息を絶った人間に対しての慣用句として
吐き捨ててるだけですかね?
もう一つ
マルクス・アウレリウスの心の師
エピクテトスの言も引用されてますが
自分はこの一文だけでエピクテトスに心を持ってかれました!
君は一つの死体をかついでいる小さな魂にすぎない
マルクス・アウレリウスの生の概念は
このエピクテトスの言葉に集約されてるかもしれません
それにしてもよほど腹立たしい輩がいたのか
「害を与える人間について無関心であれ」
と、くどいほど重ねて述べてますw
そんな人間臭さにはむしろ、ほっとします♪
◆第五章 指導理性
喜劇詩人メナンドロスの詩から
歴史家へロドトスの一節まで
引用が多岐に渡ります
また『オデュッセウス』からの引用を取り上げます
なんびとも悪しざまに行いもせず、いいもせず
これはテレマコスがオデュッセウスを探す旅に出た直後
そうと知ったペネロペイアが
かつてオデュッセウスが国を治めてた時には
人民に酷いコトをしたり(悪口を)言ったコトさえなかったのに
なぜオデュッセウスが戻らナイでいる間に
恩を仇で返すように人民によって家が荒らされるのか・・・
と、そんな不遇を嘆いてる台詞の一部です
留守がちなのが気になってるんでしょうかね?
エピクテトスからの引用は
耐え忍び我慢すること
これって本音でしょうね!
しかしこれを歯を食いしばってやるのでなく
主観のすり替えによって
泰然自若として行うコトを提案してるのが
マルクス・アウレリウスなんです
【ト・ヘーゲモニコン(指導理性)】に言及しながら
【カトルトーセイス(まっすぐな行為)】なる表現も出てきます
そうしてまったき言動を常に行うための心がけを
自身に諭してるだけと言えばそうなんですが
自分には病的に感じられます・・・
◆第六章 アレクサンドロスとヘパイスティオン
まず物質の分散
つまり「元素に帰する」てのを的確に捉えて語ってて
「生物の死後も同様になる」としてます
でもここまで科学的な分析をしておいて
「そのモノの内なる価値を見出せ」とも述べてて
しかも宇宙をかなり正確に把握して
「宇宙と個々の生物が大宇宙と小宇宙の関係にある」
とも仄めかしてるので
好い意味でぞっとする章です^^;
自然科学を愛する自分にとって
この章に書かれてるコトは驚嘆の連続で
マルクス・アウレリウスを敬愛すべき人物として
決定付ける要素が凝縮されてます
ましてや自分がこよなく愛するアレクサンドロスに関する
最も心惹かれる記述があるのです
マケドニアのアレクサンドロスも彼のおかかえの馭騾者(ぎょらしゃ)もひとたび死ぬと同じ身の上になってしまった。つまり二人は宇宙の同じ創造的理性の中に取りもどされたか、もしくは原子の中に同じように分散されたのである。
駱駝者はアレクサンドロスの馬の世話係って意味で
マケドニアの慣習からすると
貴族の子供は王室見習いをするようになった時から
ずっと王子の馬の世話係もやるのだから
そうした内の誰かであるワケですが
ぶっちゃけ、ヘファイスティオン(へパイスティオン)でしょう
アキレウスとパトロクロス
アレクサンドロスとヘファイスティオン
ローマ時代にはこの2組のカップリングは常識で
マルクス・アウレリウスももちろん知ってたはずですが
彼は少年愛に否定的だったので(第一章参照)
カップルであるコトに対して嫌悪感を抱いてて
はっきりと名前を出すのも憚ったんでしょう
世界を制した大王もその伴侶も
死んでしまって同じく塵になってしまった
ヘファイスティオンの突然の死に際して
アレクサンドロスは彼を神として祀ろうとしたんですが
当のアレクサンドロスに至っては
生前には神(の子)だったはずなのに
その死後には後継者争いがあり
死骸が祀られずに放置されてたりしたワケです
マルクス・アウレリウスにとって
アレクサンドロス大王は
人間としての、生物としての、分を弁えておらず
しかも禁を破って男同士で愛し合ってた
非道の限りの人物なんです^^;
その驕りが打ち砕かれた末路の
虚しさを嘲笑しつつも
でも自身も死んだら
やはり彼らと等しく塵だと察し
肉体が塵になった時に
内なるダイモーンは・・・?!
そんな虚無感に苛まれてしまってますね><
たぶんローマ時代には
アレクサンドロスはアンチも多かったと思うんです
特に元来文化を構築してきた誇り高きギリシア人にとっては
ローマ人は新興勢力で脅威だったんですが
マケドニア人は過去の一時代の悪夢でしかありません
軍事に長けてただけの所詮田舎者なんです
マルクス・アウレリウスが受けた教育から察するに
ギリシアかぶれのローマ人ですから
その点ではある意味アレクサンドロスと互角なんですが
アレクサンドロスは(以下は私見ですが)
東征によってコスモポリタニズムを実現しようと考えてて
征服した後のアジアの文化でも
優れてると思う部分は取り込もうとしたくらいです
帝国の境界で蛮族と戦ってたマルクス・アウレリウスなんかに
コケにされる所以はナイんです
尤もマルクス・アウレリウスにしたら
平和主義者なのに戦陣に身を置かねばならなかったので
自ら戦争をしに世界の果てまで出かけたコトが
どうにも癇に触る部分なんでしょうね・・・。(´д`;)ギャボ
本来なら「アレクサンドロスなどは愚の骨頂」
とかなんとか、こきおろしたいトコロを
そこは「謙遜」の人マルクス・アウレリウスですからw
第六章ばかりが長くなってしまいましたが
最後にもう一つ
『イリアス』からの引用
土にかえる
これは第七歌のメネラオスの台詞で
慣用句として使いまわされてたんでしょうかね?
トロイ勢が優勢になってきて
勢いづいた大将ヘクトルとその弟パリスが
次々とギリシア勢を討ち取ってる最中
アポロンとアテネの2柱の神が
ヘクトルの味方をしよう、と話してるのを耳にしたのが
パリスより下の弟ヘレノスでしたが
そうと知ってすっかり調子に乗ったヘクトルは
一旦、全軍を引かせて戦闘を中断させ
改めて意気揚々と一騎打ちを申し出ました
ところがギリシア勢は静まり返って座したまま
誰一人それに呼応しなかったので
メネラオスが憤懣やるかたなく吐いた台詞がこれです
「てめえらのように情けナイヤツらは
そのまま汚辱にまみれて
死んでしまえ!」
そんな意味を込めて言い放ち
結局、自身が武具を身に着けて名乗り出ようとするも
周囲に止められました
ヘクトルとの一騎打ちに誰も名乗り出なかったのは
勝つ見込みがなかったからです
しかしこの時、メネラオスよ、そなたはヘクトルの手にかかって最期を遂げたかもしれぬ―――なにせ彼はそなたよりも力は遥かに強かったのだから
とホメロスも言ってるくらいですからねw
◆第七章 悪徳とは何か
「悪徳とは何か」に始まるこの章は
章全体が最も散漫な印象にあります
ドグマ(信条)、エウダイモニアー(幸福)、
死、苦痛、名誉など
語句の真意が語られてたり
宇宙や自然の摂理や原子論も
もう少し突っ込んだ科学的見解が述べられてます
にも拘らず、「心ここにあらず」で
話が途切れ途切れなんです
やたらと引用が多いのもこの章の特徴で
ギリシアの3大悲劇詩人の1人
エウリピデスの引用が殊更多いのも特異的です
それがまた引用文のみの羅列で
解釈などは一切ありません
よほどマルクス・アウレリウスのツボにヒットしてるのか
同じ引用文(下記3つとも)が第十一章にても見られます
物事にたいして腹を立てるのは無益なことだ。なぜなら物事のほうではそんなことおかまいなしなのだから。
人生はみのり豊かなる穂のごとく刈入れられ、あるものは残り、あるものは倒れる。
たとえ私と私の二人の子供が神々から見棄てられたとしても、これにもまた道理があるのだ。
哲学者の中ではプラトンの引用がダントツに多いですね
そう言えば、他章でよく引用されてるソクラテスの言にしても
書き記してるのはやっぱりプラトンですしね
それにしてもかなり腹立たしい事件があったのか
怒りを表情に留めぬ方法やら
相手の過ちを許容する方法など
主観のすり替えが目に付きますが
章末では珍しく(?)センスの゚+.(・∀・)゚+.゚イイ皮肉を言ってます
笑止千万なことには、人間は自分の悪を避けない。ところがそれは可能なのだ。しかし他人の悪は避ける。ところがそれは不可能なのである。
◆第八章 自然哲学、自然科学
哲学(者)への想いが語られてて
自分が哲学より遠ざかったコトへの嘆きや
征服者と哲学者の比較をしてます
もちろん哲学者へ賛辞を送ってるんですが
ここで征服者代表に挙げられてるのが
アレクサンドロスを筆頭に
ガイウス(カエサル)、ポンペイウスで
哲学者はディオゲネス、ヘラクレイトス、ソクラテスです
ディオゲネスにはアレクサンドロスと対峙した時の逸話があり
その辺を加味しての比較なんでしょうね
神と同義で、宇宙、自然などが使われてて
人間と神(ここはゼウスと特定)の対立した世界が
万物と宇宙もしくは自然の調和した世界へと
主観でなく世界観自体がすり替わってて
下記のような表現が新出します
誰を責めるのだ。原子か、それとも神々か。いずれにしてもきちがい沙汰だ。
万物はそれぞれある目的のために存在する。(中略)太陽すらいうであろう。「自分はある仕事を果たすために生まれた」と。その他の神々も同じコト。
この表現にある「太陽」ですが
他にも太陽の光線について詳しく語ってる箇所があって
その解説中の太陽光線の「語源」については
訳注によれば間違いらしいんですが
観察眼の鋭さは科学者としても大したものだと
感心せざるをえません
◆第九章 らしくナイ暴言続出の章
不正、嘘、罪などが世界に不調和を齎す、と嘆き
抑制しきれなくなった何かがあったのか
この章はマルクス・アウレリウスお得意のはずの
高潔さや潔癖さなどを微塵も持ちえてナイ文体が目に付きます
ある意味、最も読み応えのある章だとも言えます
『自省録』中で唯一、自暴自棄な一節
もう沢山だ。このみじめな生活、ぶつぶついって猿真似しているのは。
これは邪推かもしれませんが
この章の記述中に
奥方の浮気にやっと気付いたとか・・・?!
例えに挙げてるだけにしたって
らしくナイ「女と寝る」なんて表現を使ってるのもここだけで
神に対してもかなり失望を隠せナイ状況で
全体に殆ど引用が見られナイのも
自身の中の吐き出したいモノの方が
取り入れたいコトより
遥かに多かったからでしょうかね?
相変わらずなのはアレクサンドロス批判で
今回は父親のフィリッポスまでも
「悲劇役者を演じたに過ぎナイ」と一緒に叩かれてます
これまでよく引用もしてて肯定的だったプラトンに対しても
「プラトンの理想国家を望むな」とか笑かすw
何しろプラトンは
「哲学者が国を治めるのが理想の国家だ」としてて
それを唯一叶えたのが
マルクス・アウレリウスに他ならナイのに・・・www
しかもその直前の文には
なんと下らぬ小人どもだろう。政治屋でありながら、哲学者のごとくふるまうとうぬぼれてる奴らは。みんな鼻たらしさ。
などと、らしからぬ悪口雑言ぶりで
それにしたって表現もあんまりでおかしいヽ(゚∀。)ノ
◆第十章 ぶつぶついうな、と反省
前章においての憤りを恥じてるかのように
ここへきてまた神だのダイモーンだのと言い出します
加えて前章のらしからぬ暴言を悔いてるのか
ぶつぶついうな。
なんて戒めもあるのがなんかカワ゚+.(・∀・)゚+.゚イイです
それにしても残すトコロ、あと2章なんですが
ここまで一言も家族について語ってません
13人(最終的には一男四女)の子供がいたはずですから
戦地において自身を省みる記述だったとしても
ここまで捨て置けるモノなのかと訝しく思えます
ちなみに後から付け加えたのであろう第一章には
妻が「従順で優しく飾り気がナイ女」だと述べ
続けて「子供の家庭教師が難なく見つかった」と述べてて
これもおかしな表現だと思うんですよ
「よい妻を持った、よい子供に恵まれた」
てのが、家族への謝辞としてフツーですよね?
家庭教師って・・・???
子供自身については何もナイって明らかに変です
そしてこれもらしからぬ発言ですが
男は女の胎(はら)に種を蒔いてその場を去る。
なんて、とても家庭を大切にする父親の言ではありえません
やはり奥方の不貞を暗に非難してるのかと
余計な勘繰りをしてみたくなります
また前章において
アレクサンドロスとピリッポスを悲劇役者に例えてましたが
それを受けて更に彼らの宮廷を舞台に例えてて
舞台装置はいつでも存在して役者が変わるだけだ
としてます
なるほど、ここまではわかりますが
全体として不可解なのは
ハドリアヌスとアントニウス・ピウスも
この役者に並列されてるコトです
この2人はマルクス・アウレリウスと共に
五賢帝と呼ばれてる人物です
アウグストゥスから200年
パックス・ロマーナ(ローマの平和)があり
その最期を飾る五賢帝による統治はローマの最盛期でした
五賢帝はネルヴァ、トラヤヌス、そして前述の3人で
その功績は称えられこそすれ
気に入らナイアレクサンドロスと併記するとは
些か納得が行きません
しかも自身の才覚を認めてくれたハドリアヌス帝や
その後押しで養子にしてくれたアントニウス・ピウス帝です
皇帝職に就きたくなかったってコトでしょうか?!
ところでマルクス・アウレリウスが
「ギリシア悲劇」をどう見ていたのかと考えると
引用も多く(中でもエウリピデスは繰り返し引用されるほど)
当然ながら気に入っていたワケです
とはいえ、基本的な概念としては
「役者と娼婦は同系列に属し、最下層民である」 との意識があるのです!
奴隷解放などを行ったほどのマルクス・アウレリウスですが
第五章に「蔑むべき人間ではナイ」との意味において
「悲劇役者でもなければ遊女でもナイ」と引き合いに出してるので
裏を返せば「役者と娼婦は蔑むべき人間」ってコトですね
この問題はここでは提起だけで考察は次の章に譲るとして
ここでまた『イリアス』からの引用
吹ききたる風のまにまに地の上に撒き散らさるる木の葉にも似たるは人のやからなるかな。
春の季節に生まれいず。
連続して使われるこの2句はグラウコスの台詞・・・
って言われても、グラウコスってマイナーキャラですよね?
でもグラウコスの父親はヒッポロコス・・・
って更にドマイナーですよね?!
ヒッポロコスの父親(グラウコスの祖父)は
あのベレロポンテスなんですけど・・・
「あの」って言われても???←これが日本人の常識w
まあとにかくグラウコスがこの台詞を言ったのは戦場で
しかもディオメデスと戦ってる途中・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ
このディオメデスはテュデウスの子で
テュデウスはオイネウスの子(こっちもマイナーな家系w)で
早い話がベレロポンテスとオイネウスが・・・
つまり戦ってる2人の祖父同士が旧知の仲だったんですね
戦場で差し向かい、拮抗して戦ってた2人でしたが
ここが優雅とゆーか呑気とゆーか
途中でお互いの出自を語り合い出すんですヽ(゚∀。)ノ
そして祖父の間で親交があったとわかるやいなや
戦うのを止めて握手を交わしてから
武具の交換をして別れます・・・バタリ ゙〓■●゙
先に出自を語り出したのがディオメデスだったんですが
それを受けて語り出すグラウコスが
最初はあまり乗り気ではなくて言った台詞がこれで
時代劇にある「問われて名乗るもおこがましいが~」ての
あれに近いノリではナイかと思われます
◆第十一章 十戒ならぬ九解
ここでまた理性的になって物事を分析し
主観のすり替え作業に勤しむようになるんですが
ここでは他の章に見られナイ事象の解説が見られます
まずギリシア悲劇について
第七章にて既出のエウリピデスからの引用を
「有益なモノである」として3つとも再度取り上げてて
その直後に喜劇についても述べてますが
「喜劇も悲劇と同じく当初は有益だったが歴史を経て質が落ちた」として
結びの句が
しかしこういう詩や劇作の企図は全体としてなにをめざしていたのであろうか。
と疑問を残したまま終了してます
アレクサンドロスや他の支配者とその宮廷を
悲劇役者とその舞台に例えてきた経緯を加味すると
自分自身の悲劇役者としてのあり方や
舞台演出=政策に行き詰まりを感じてるのを
例の如く「すり替え」て主観から追いやってしまってたのが
潜在的に残留してて現れたんでしょうか?
表現が湾曲的だったので
油断してて露出してしまったと推察する次第です
そして続いてこんなコトを・・・
哲学するには、君の現在のあるがままの生活状態ほど適しているものはほかにないのだ。このことがなんとはっきり思い知られることか。
第八章での嘆きと全く正反対のコト言ってますってw
しかし自分としてはこっちを信じたいです!
さて、次が問題の箇所・・・
いや、問題意識を感じるのは自分だけかもしれません
なんと芸術について語ってます!
主観のすり替えに必死で
すり替えきれなくても耐え忍びながら生きる・・・
そんな可哀想なほど生真面目なマルクス・アウレリウスには
悪いけどはっきり言って美的感覚がありません!!
美意識はあっても必ず「徳」が付いてて
要するに【美徳】にならナイと
「美」を受け入れるヨユーがナイんです
また「美」そのものを愛でるには
耽溺しなくてはなりませんが
そうするコト自体が彼にとっては悪徳ですからね
そんな全く芸術を解する見込みのナイ彼が
芸術について語ってるのだから
片腹痛いわ!!(もち、オスカル風味で!)
そんなですから芸術を賛嘆してませんヽ(゚∀。)ノ
「芸術は自然の模写に過ぎナイから、自然こそが1番素晴らしい」などと
自然を褒めるための比較対照として芸術を持ち出してます!!
反論の余地はナイです
が、ナイのは当たり前です
自然をこそ最も素晴らしい、と思わなかったら
その感動を表現しようなんて思うワケもナイんです!
そして表現されたモノを見ても聴いても
感動が湧き上がりようもありませんからね?!
芸術を愛する者こそが自然をも愛してるはずなので
それをわざわざそういう言い方で持ち出すのは野暮だし
ましてや悪口を言わナイ信条の人間が
そこまで排他的な物言いで貶すのはどうかと(-_-;)
自然に対して芸術は
悪徳なのか?害なのか?
もれなく必要悪なんでしょう
でも芸術は自然に対抗しようとはしてません
むしろ同調しようと一生懸命です
つまり芸術家は誰よりも
自然が芸術より優れてるってコトを知ってるんです!
政治家にそうと言われる筋合いはナイです!!
この手記中で1番の駄文ですね・・・
中盤には十戒ならぬ九解が挿入されてますが
それらは当人曰く
「ムーサイの女神たちからの贈り物」だそうで
これらをアパテイア(不動心)をもって実践すれば
10番目の解をアポロンから得られるとな?!
この辺りが1番「そう言えばストア派だったっけ」と
思い起こす部分だったりしますが
当人もここでそうと思い出したかのように
この後、哲学者の言の引用が延々と続きます
その中に『オデュッセウス』からの引用が・・・
わが心笑えり。
これは第9歌で
一つ目巨人キュクロプスを
オデュッセウスが巧妙に騙した際に
旨くいって「心中ほくそ笑んだ」とゆーモノです
このキュクロプス(名前はポリュぺモス)は少々おつむが弱く
奸智の人オデュッセウスとその部下によって
やっつけられてしまうんですが
それで仲間のキュクロプスたちが
やっつけたヤツに仕返しをしようとポリュペモスに
誰にやられたのか、と聞くと
誰でもナイ(英語だったらNobodyか?)、と答えるんですが
要するにオデュッセウスはポリュペモスに
「誰でもナイ」と名前を騙ったワケです
「なんだ、誰かにやられたのではナイのか」
とキュクロプスたちは引き上げて
その場は助かったので「心中ほくそ笑んだ」んですが
実はこのポリュペモスはポセイドンの息子だったんです!!
それを痛い目遭わしてしまったので
海の神様に睨まれて帰れなくなったんでした・・・
って、全然笑ってる場合ではありませんw
推定ですがこれも慣用句的な言い回しなのかも?
「企みが旨くいった、しかし落とし穴があるやもしれぬ」
なんて意味とか???
◆第十二章 ストア派
ストア哲学者らしい文章が居並びますが
言いたいコト(最も大切なコト)は
「自然の摂理(宇宙もしくは神の意志)に従いつつ
指導理性を発揮するコト」
そのためには
「意味を持って、事を成すように」
と促しつつも
全ては主観に過ぎナイ、としてます
指導理性は物凄く簡単に言うと
「腹立たしいコトにいちいち腹を立てナイコト」で
時に行き先を失わせたり
目指す方向性をひん曲げたりするような
邪魔なモノに対して
振り回されずに生きる知恵(工夫)で
行先にあるのは恐らく母親が理想としてる姿でしょう
ところが目指す先の最終地点にあるのは
とどのつまりは実は
死です
我武者羅に目的地を目指ざしても
到達した暁には得るモノなどありません
また我武者羅な最中は
周囲に対して迷惑だったり
甚だしいと全く理に適ってなかったりして
自身こそがもれなく邪魔な存在になってたりヽ(゚∀。)ノ
そんな危険性が多分にあります
そこで調和してるかどうかを推し量るために
まず物事を正確に分析するんです
そこで理不尽さを感じるコトができたら
少なくとも自身より理不尽な人間がいる証拠で
その理不尽な誰かよりは自身の方がマシだとは言えます
ところで理不尽なコトは尽きませんし
根絶やしにするほど矯正しやすい質でも量でもナイモノです
利口な、合理的な、理性的な、科学的な
手っ取り早いやり方は
理不尽さを感じた方こそが
主観をすり替えてしまうコトなんです
これが正にストア派のやり口で
その延長線上に【宿命論】があるんです
自分には「運命は切り拓くモノ」だと思えますが
ストア派に言わせると「宿命は受け入れるモノ」なんです
幸せに生きたい、との欲求を満たすために
自分にとっての幸せを追求して
これこそ至福と感じるモノに耽溺する・・・
それが死までの短い間に自分が望む全てです
でもストア派にとっては
耽溺こそが諸悪の根源であり
そんな悪徳を全うしようとするのは
自然の摂理(神の意志)に反するコトなんです(-人-;)
宿命を享受しやすいように
都合よく主観をすり替える・・・
自らの精神を自らが矯正できずしてなんとする!
このストイックさがストア派の鉄壁の意志で
矯正する方向付けの基準は
世の中の流れとは関係なく自然の摂理で
それに身を(肉体を)任せて
心の(魂の)不具合が生じたら
今度は内なるダイモーンによってなんとかすべし!!
それがストア派の神髄でしょうかね?!
◆巻頭と巻末
巻頭には2ページに渡る訳者による序文があり
先のは昭和23年9月末日とあるので
第二次大戦直後から翻訳作業に入ったんですね
「久しく絶版となっていた」から始まる後に続く
新版の序文には昭和31年4月2日とあり
昭和31年・・・1956年は今から半世紀以上前です
巻末には解説が17ページもあって
内容は以下の通りです
一、マルクス・アウレーリウスの生涯
二、『自省録』の思想内容について
三、『自省録』の構成、文体その他について
この中で一、マルクス・アウレーリウスの生涯は
本文より先に読んでからの方が
つまりマルクス・アウレリウスの人間像を把握してからの方が
内容は理解しやすいかもしれません
なんせ常人からはもちろん、ストア派としてさえ
かなりかけ離れたストイックさで
なぜそこまで病的に高潔な姿勢を貫こうとするのか
わかりかねるからです
最後に文献紹介(原文)が1ページあって
これで索引があったら、なんて便利なんだろうと思う反面
ここまで読み込まなかったとも思われます
