『しみじみ生きる』とは、なんぞや。

 

そう問われて、昨日、たまたま感じたことがあります。

それはたぶん、

そのときそのときを精一杯生きるってことじゃないだろうか、

と思うのです。

 

 

もうとっくに半世紀を越えるほどに生きて来ました。

物心ついた子供の頃から始まって

学生時代や勤め人時代、さらには自分で会社をやって、

ざんざんっぱら好き放題いろいろとやりたいことをやってきました。

いろいろなことがありましたが、

どうにか奇特なカミサンを得ることができて、

自分には不似合いに真面目な子供を授かり、無事に育てあげた、

とまではいきませんが、

そこそこ自分の人生は自分で考えることができるくらいまで育ってくれて、

自分の我侭で会社の一線から降りて、

なんのとっかかりもないところからフリーランサーなんて、

聞こえはいいが胡散臭いことこの上ない身分で仕事を始めて、

その行き掛けの駄賃で始めた英語教室。

可愛そうなことに私なんぞに中学時代に英語を教わった学生が、

昨日、私の母校を受験しまして、

貧乏暇だらけな私は、彼に付き添って、母校へといってきました。

 

 

東京という大都会に久しぶりで出向いたわけです。

彼が試験を終えて出てくるまでの間、暇つぶしに、

昔馴染んだ界隈を散策して回りました。

ところどころに、当時から生きながらえた食べ物屋を見つけては、

感動してみたり、行きつけの場所がなくなっていて、しょげ返ってみたりと、

悲喜交々な一時を堪能しました。

 

それでもまだ大分時間が余るので、

庭園ってほどたいしたもんじゃないのですが、それでも庭園を名乗っているので、

その庭園という場所をゆっくりと回ってみました。

学生時代、たまに昼休みを過ごした場所でした。

体育会の運動部だったので、たいていは速攻で東伏見グランドでしたから、

そう多く立ち寄った場所ではありませんでした。

それでも、かなりのときが経っているろいうのに、

そこにいくと当時の様子が浮き上がってくるから不思議でした。

 

 

 

学食はきれいでモダンなカフェテリアになり、

芝生くらいしか昔の記憶と重ならなくなった庭園は、

いちおうそれらしく記念碑とかいろいろが整っていたり、

すっかり変わった周辺風景の様子を感じたりしながら、

昔はなかったベンチに腰掛けました。

スマホを持たないので、こんなこともあろうかと、

普段使いのiPod NANOを相棒に連れて行って大正解でした。

 

 

昨日は何でも四月の半ばほどの陽気だということで、

大方の父兄が待つ講堂は息が詰まりそうだったので、

そこでしばらく残りの時間をつぶすことにしました。

天気予報のとおり、外が心地よかった。

普段はあまり聞かないプレイリストをかけてみました。

昔のフォークソングや、

銀座ナウとか、せんだみつおが深夜放送を牛耳っていた、

そんな時代の音楽が並んでるやつです。

 

 

 

その音楽と、かろうじて昔をとどめている冬場の茶色い芝生を眺めていて、

なんとなく空を見上げてみました。

懐かしい、いろいろな声や、いろいろな顔や、いろいろな感情や、

いろいろな記憶が蘇ってきました。

ふだんせわしなく、落ち着きのない自分ですが、

このときは実に、しみじみと思いました。

いろいろと、やってきた。馬鹿なりに、形振り構わずやってここまできた。

まだ、よかったかわるかったか、それはわからないが、

とりあえず今こうして昔を振り返っている。

なんて、ことを感じました。

それで、この問いに、

ああ、しみじみ生きるってことは、

そのときは無我夢中だけれど、あとになって振り返ってみて、

しみじみ思い返すことができるように生るってことじゃないかなぁと、

そのときそのときを精一杯生きるってことじゃないかなぁ、

と、思いました。

 

今日の〆

 

 

取るに足らない、

見方によっちゃ、そんな音楽番組の始まりの歌。

でもその頃の自分にとっては

ケツを蹴り上げられるくらいのインパクトがあった。

お前、明日のために、今日何をやった?

留学を決意することになった、