☆アダルトチルドレンの思い出☆
■カメラアイ
過去の出来事の一場面を、まるで写真の印画紙に焼き付けたように記憶し、後になってもその一場面を鮮明に思い出すことができる、
写真眼とも言うようですが、
全部ではないのですが、そういう思い出し方をできる時があります。
会社の飲み会で、どこどこのお店に行ったとき、私の右隣に○○さん、向かい側に△△君、はす向かいに□□君。そこで、◎■×~という話題になって、○○さんが、カクカクシカジカ~って言ってたよね!
そういう時は、店内の照明の明るさとか、ソファーの色とか、置物とか、色々覚えていたりします。
が、
たいていの場合、当の○○さんは、誰がどこに座っていたかもあやふやだし、カクカクシカジカと答えたことも
記憶にございません(・∀・)
それで、逆に記憶力良いよね~Σ(゚д゚;)
なんて言われたりもするのですが。
カウンセリングの時間にその話をしたところ、
どうも、感情面が働いていないが故に出来る技のようで・・・
フツウの人は、飲み会の場合なら、
は~ぁ楽しかった!また、行きたいわ~
(ノ^^)八(^^ )ノ
という感情だけが記憶として残るそうで、物理的に何が何処に在ってという情報はあやふやになるようです
(・_・ 三・_・)
私の場合、飲み会でも、顔が赤くなっても、心臓のバクバクいっている音が耳の奥で聞こえても
(@Д@;
酔いきっていない
のだそうです。
たぶん、飲み会の場合には、帰宅という束縛があるからだと思うのですが
((>д<))
それ以外にも、感情面が働いていないので、小さい時は、遠足とか旅行とか何処かに行った後で
どうだった?
という質問に上手く答えられないことも多く、
いつの頃からか、そういうのはダメだと思うようになり、
自分が面白いからなど感情を度外視して、単に場面を記憶するという癖がついたように思います。
(それでは結局のところ、どうだった?の質問には答えられないのですが)
感情面が伸びるということは、ある種この特技が無くなるということにも繋がるということなのですが、
特技がなければ、私は私でなくなってしまうのでしょうか?
それとも、人らしく生きることが、私らしいのでしょうか?
■写真耳?
これは、カウンセラーの先生の造語です(笑)
カウンセリングの課題で、以前の内容をよく覚えていたりするので、
写真眼
ならぬ
写真耳
とおっしゃいました。
理屈は、上記のカメラアイと同じで、そこに感情は存在しません。
■それが何か?
最近、他者は、私の存在を奇異と感じているのではないかと思うことがあります。
例えば、仕事の電話で、それが初めての内容だったり、余り話したことの無い相手だと、
それが、最終的には、自分一人で解決出来るような内容だったとしても、
フツウの人は、電話に出ることを渋ったり、自分以外で対応出来そうな人を探したり・・・
モタモタ・・・
たぶん、感情面の成せる技なんでしょうね。
先日、ある先輩社員さんから、「○○の件で△△さんから電話が入っていますが、分かりますか?(上長が休みだが、対応可能か?)」
と言われたので、内容はざっくり知っていたものの、私一人でその業務にあたるのは初めてだし、△△さんとは話をしたことが無かったのですが、何とかなりそうな雰囲気だったので、
「(電話に)出ます」
結果、さくっと完遂!
でも、こういうのが、後々誤解の元となることが多いです。
例えば、これに取引先とか社外の要素が絡むと、そうは上手くいかないのです。
何故なら、社外の人は、どういう人かが分からないことが多いので、画一的な対応だと、それが失敗に繋がることになるからだと思います。
ただ、社内の人なら、多少失礼なことはあっても、まだ身内だから何とかなることも多く、
フツウの人には、感情面が絡むことによって難しいことや、避けることも、
それが何か?みたいな調子でサラっとやってのけると、
行く行くは、自ら墓穴を掘るはめになるのです。
でも、サラっとやってのけることが、
実は、他者からすれば、奇異に写っているのではないか?
結果オーライだったとしても、電話の相手からすれば、
そもそも、あなた誰?
本当に大丈夫?
と思われても不思議ではないし、
一般的には苦手なものを、坦々と進めるのは、他者からすれば、異様な光景ではないだろうか?
でもね、本当は違うのです。
周りが不快に思うことは、私にとっても不快であることには変わらないし、
非定型なことは、私にとっては最も不快なので、
それを、大脳辺縁系への信号を遮断し、新皮質の理性だけに信号を送り、その結果(快)を扁桃体へ送ることによって、バランスを保っているに過ぎないのです。
ただ、その不快を回避するための言語表現、即ち、
断る((o(-゛-;)
または、断っても良い時もあるというのを知らないだけなのです。
不快を回避するための方法は、パターン(知識)を増やすのみ。
そうやって坦々と進められる、
それが私
なのですが、対応範囲にも限界はあり、いずれ出来ない日が来るのが恐ろしくもあり、
そうすると、出来ない私は、私ではなくなってしまうのでしょうか?