『脳と仮想』 茂木健一郎著
を読んで、まずは、興味深かったところを書き留めておきたいと思います。
・物質である脳に、いかにして主観的体験に満ちた私たちの心が宿るのか?
・人間の経験のうち、計量できないもの=クオリア(感覚質)
・私たちの主観的体験もまた、厳密な法則に従う一つの自然現象であると考えられるので、科学という営みの探究の対象を広げていく必要がある。
・脳内に閉じこめられているにも関わらず、脳内には限定されない。心の本質的な属性をとらえた概念=志向性
・現実のどこにもないからこそ、切実な仮想
・感じることで、世界を引き受ける
・自分が生きた上で、感じる
・体験によって生じた脳の中の神経細胞の活動によって、脳が大規模な再編成を余儀なくされる
・その体験が、自分が生きていくことの本質にどのくらい関わるか?その価値判断は、扁桃体が中心となる。
・再編成の結果新しいものが生み出される=創造
・仮想によって支えられる、魂の自由があって、はじめて私たちは過酷な現実に向かい合うことができる。
・片方で外界と相互作用しながら、もう片方で脳内の神経細胞の自発的活動に支えられて、自己の中に発達させた仮想の数だけ、現実を豊かに把握できる。
・他者とコミュニケーションができていると思えるのは、私たちの意識の中の「他者の心」という仮想によるもの
・主観的体験としての空間の各点は、「私」からその点に向けられたまなざしを通して体験される。
・物理的空間も、他者の心も、全ては意識の中の志向性によって生み出される空間の中に含まれている。
・私たち一人一人にとっての絶対条件は、世界が根本的に断絶しているということ。
・今の私たちの意識は、過去の自分や、歴史・文化的なものの見方といった意識も受け継いでいる。
・私たちの魂は、一つ残らず現実の世界との摩擦で傷つく。その傷が癒える過程で、様々な仮想が放射される。
・今あるものを、ただ、その表面上の表れにおいてとらえるのではなく、その起源においてとらえること。それがこの世になかった時から、生まれた後の瞬間への劇的な変化に思いを致すこと。
・一瞬後には、この世はどのような姿をしているか判らず、自分もどのようなものとしてここに立っているか判らないと信じること。
・現実は、きっとある。しかし、現実自体は知り得ない。私たちが把握できるのは、意識の中の現実の写しだけである。だとしたら、この世界で確実なのは、現実の世界ではなく、意識を持った自分だけではないか。
☆☆☆ ☆☆☆
ところで、私は、昔から疑問に思っていることがあります。
誰かの生まれ代わり
とか、
前世は何だった
とか、
そう考える前に、
私は、今この時を生きている、
今生きているのだという意識が、
何故あるのだろうか?
それが、すごく不思議でした。
誰かが、
前世は誰にでもあって、でも、その記憶が無いだけだ
と言いました。
そこで、私が、
では、前世の私は、前世を生きていたその時に、その時を生きているという意識があったということか?
と聞くと、その人は、
そうだ
と答えました。
でも、私は、全然納得がいきません。
どうして、今、こんなにもはっきりと、私という意識があるのかと。
前世とは、もしかすると、
脳の神経細胞から離脱して、普段は意識と呼ばれる電気信号が、他の物質に移動することができたり、
または、先祖の意識が、子孫の遺伝子のようなものに組み込まれたりする
ことによる現象で、
今を生きていると意識している私と、(仮に私が、過去の誰かの何かを受け継いでいるとして)、その過去の誰かの意識は、私の意識とは別のものなのではないかという気がします。
さて、本題に戻りまして。
ACに不足しているものは、感情・創造・仮想という思考なのではないかと思います。
それは、自分の生なのに、そのように思えない環境で育ったことが原因だと思います。
そして、特に仮想とか創造というプロセスに欠かせないのが、視覚野の働きだと考えています。
そう考える根拠は、
未来を思い描いたりするという表現方法に
ビジョン
という言葉が使われていることや、
以前にも当ブログで書きましたが、
DVのある家庭環境で育った子供は、視覚野が委縮するという研究方向があることから、ACにも、委縮するとまではいかなくても、脳のある部分を使わない癖がついているのではないかと考えられることや、
盲目の人は、聴覚や触覚から得た情報を視覚野も使って処理しているという事例から、
視覚野は、目から入ってきた情報を処理するだけではなく、全般的にものを認識する場所なのだと考えられます。
言語において、人に話すために論理的に文章を組み立てるだけではなく、自分があれこれと考えをまとめるために、頭の中で言葉で自問自答するように、
視覚野においても、外界のものが目に飛び込んできたから処理するだけではなく、自分の中であれこれと考えをめぐらすのにも、視覚野は使われており、
自分自身の生を、自分自身のものと考えることで、より活発に神経細胞が働くのではないかと思います。
しかし、脳にはそれぞれ成長が著しい時期があり、それを逃すと、ゆるゆるとしか成長しません。
だから、成長期を逃した場合は、迎え水となるようなきっかけがいると考えます。
今後は、そういう思考を出来るようにするためには、どうしたら良いかという具体的なメソッドについて、考えていこうと思います。
最後に
今、ACの生き辛さで苦しんでおられる方々へ
一人ひとり成育環境が違うので、生き辛さも皆違うと思いますが。
自分の生を自分のものとして思考できるような、メソッドを開発したいと思っています。
いつ出来るとか、本当に出来るとか約束はできません。
立場は違っても、それでも、何とかしたいと思っている人が居るということを、時々でいいので思い出してもらえたらと思います。