☆アダルトチルドレンの思い出☆
先日、今後取り組んでみたいこととして、
種の保存
について書きましたが、
(2013.9.3 アダルトチルドレン予備群の救済に向けて~覚書~ 参照)
もし、それを大衆に広めたり、説得したりするならば、
そもそも、何故、種の保存が必要か?
を言わなければならないことに気付きました。
でも、人間以外の生き物は、そんなことを
何故?
なんて言いません。
その時が来れば、そのように行動するのは、どうしてなのでしょう?
少なくとも彼らは、
自分たちの種を保存しなければならない!
と思って行動しているわけではないはずです。
その動機付けが必要ならば、植物など脳を持たない生き物は、種の保存ができないことになります。
本当に動機付けが必要なのでしょうか?
動機付け=理屈は、論理的思考です。
では、動機付けを必要としない思考=感情的思考を持ってすれば、種の保存が受け入れられるのでしょうか?
しかし、感情という思考も、前頭前野が発達しているから考えられることです。
そうなると、人間以外の生物が、種の保存ができないことになります。
種の保存が宿っている場所とは、
つまり、本能ということになります。
今、人間という生き物は、本能的感覚から、ずいぶん遠いところで生きていて、
初めは、本能的に生き延びるためだったのが、
個人の欲望や損得感情から、よりよく生きるために、
たくさんのことが考えられるよう発達した前頭前野が、結果として本能的な感覚を覆い隠してしまっていると言えます。
種の保存を訴えるとき、本能的な感覚を呼び覚ますための遠回りな手段、論理的または感情的思考が必要になるのでしょうか?
いや、もっとシンプルなものかも知れません。
感情には、複雑なことを感じたり表現したりする場所と、単純な快不快を感じる場所があり、
脳科学でいうところの、後者を司る扁桃核がキーなのかも知れません。
そもそも、アダルトチルドレンの定義や、アダルトチルドレン予備群のことを考えたとき、
安心
とか、
ホッとする
なんていうものとは、常に遠いところにいます。
いつも、
きちんとしなければ、
相手のいう通りにしなければ、
嫌な思いをする、
怖い思いをする
そして、本能的な感覚(不快)を論理的思考で覆い隠さないと生きていけないと思い込んでいるところがあるように思います。
そんなこんなで、人付き合いも論理的思考になり、いつも何かに理由付けし、理由がないと、理屈が合わないと、相手を信頼することも、どんな些細な行動もできなくなるのではないかと思います。
ということは、
単純な快=安心
をそのまま感じることができれば、本能的な部分を呼び覚ますことができるのではないでしょうか?
では、安心とは一体なにか?
真の安心を求めるためであっても、新たな行動を起こすとなると、恐怖もあるはずです。
恐れが安心に変わるきっかけは何か?
徒然なるままに書いてしまい、長くなりましたので、
安心とは何か?
ついては、また次の機会にしたいと思います。