2026年。
かつて「豊か」と呼ばれた日本の残響は、ドラッグストアの店先に貼られた「在庫あります」という、乾いた紙切れの中にだけ、かろうじて息をしていた。
原材料は途絶え、エネルギーは暴れ馬のように跳ね上がり、人々は“必要最小限”という名の檻へ追い込まれた。

残されたのは、
スマホという名の牢獄と、
半径数百メートルの世界だけだ。

かつてパンデミックの折に叫ばれた「ステイホーム」は、一時の避難だった。
だが今の閉じこもりは違う。
外へ出るためのコストを払えなくなった庶民が、静かに、永続的に、世界から退いていく。
移動は富裕層だけの特権となり、彼らは“見えない街”へと身を潜め、要塞のように固めていく。

残された者たちは、四畳半の部屋でスマホを握りしめ、
かつてどこへでも行けた時代を、
デジタルという名の麻酔で薄めながら思い出すしかない。

この歪んだ昭和回帰の風景の中で、世代の断絶は決定的になった。

主役は、団塊ジュニアだ。
生まれ落ちた瞬間から競争の渦に放り込まれ、救済という言葉を一度も与えられず、「自己責任」という冷たい刃を突きつけられてきた世代。
彼らにとって“救う”という行為は価値を持たない。
生き残ることだけが正義であり、倒れることは“無能”という名の罪だ。

彼らは身体に刻まれた昭和の記憶を呼び覚まし、新聞紙を巻き、竹皮を裂き、
セコく、狡猾に、泥を啜ってでも生き延びる。
その姿は、どこか舞台の上の亡霊のようで、しかし誰よりも現実的だ。

一方で、その下のZ世代は、デジタルという人工呼吸器なしでは生きられない。
スマホの充電が切れた瞬間、彼らの世界は色を失い、死の街へと変わる。
昭和のアナログな生存術を持たず、情報の海にだけ最適化された彼らは、
部屋の隅でスマホを握りしめたまま、静かに、誰にも気づかれずに消えていく。

団塊ジュニアは、それを冷ややかに見過ごす。
かつて自分たちが無視されたように、今度は彼らが若者を切り捨てる番だ。
そこに憎しみはない。
あるのは、生存リソースを最適化するための、冷徹な“排除”だけ。

生き残るのは、高潔な者ではない。
なりふり構わず他人の分をかすめ取り、情報の隙間を縫って甘い汁を吸う、
セコい連中だけだ。

希望は──基本、ない。

あるのは、スマホの画面越しに“かつての豊かさ”を眺めながら、
最小限の物資で命を繋ぐ、浅ましい生存の風景。
日本という国は、次世代へバトンを渡すことを諦め、
救われなかった世代が“救い”という概念そのものを土に埋め、
物語を閉じようとしている。

ドラッグストアの張り紙の前に並ぶ、生存者たちの冷たい眼差し。
その足元で、充電の切れたスマホが、
もう二度と光ることのない黒い画面を晒している。

これが、
効率と自己責任の果てに私たちが辿り着いた、
2026年という名の黙示録だ。