虚像を「偽物」と切り捨てるのは、たやすい。
だが、その言葉を口にした瞬間、
人は気づかぬうちに、自分の敗北をそっと告白しているのかもしれない。
虚像とは、ただの嘘ではない。
本物の核に、時代の欲望が重なり、
そこへ社会の不安が静かに降り積もって、
ようやく形を成す“物語の器”だ。
その器の中に、何ひとつ見出せなかったと断じることは、
見出せなかった自分を認める行為でもある。
それは、誰よりも苦い真実だ。
例えば氷河期世代にはお馴染みの、
ショーンKの声の落ち着き。
落合信彦の語りの熱量。
物語を紡ぐ力、時代の空白を埋める存在感。
それらを受け取れなかったということは、
自分の感受性が、その高さに届かなかった可能性を示している。
虚像と断言することは、
「自分には理解できなかった」と言っているのと同じだ。
その言葉の奥には、静かな悔しさが潜んでいる。
虚像は、受け手の理想や劣等感を照らす鏡でもある。
自分もああなりたい。
だが、なれない。
その差が痛いほどに胸を刺す。
その痛みを直視できないとき、人は虚像を攻撃する。
虚像を否定しているのではない。
虚像に揺さぶられた自分を否定しているのだ。
そして、虚像は個人の虚栄心ではなく、
時代が必要とした物語でもある。
国際化の空白、グローバルへの焦り、成功者への渇望。
不安を鎮める声が足りなかった時代に、
虚像は“代わりに語る者”として立ち上がった。
それを偽物と切り捨てることは、
時代の欲望を読み取れなかった敗北でもある。
虚像を理解できない人は、時代の空気を読む力を失っている。
虚像は、自分を高めてくれる人には英雄として映り、
自分を脅かす人には偽物として映る。
虚像を偽物と断じるのは、
自分が虚像に救われなかったことの言い訳でもある。
「自分は虚像を必要としなかった」という、
少し強がった告白でもある。
虚像とは、本物の核を持つ人間が、
時代の欲望によって拡大された姿だ。
虚像を偽物と断じることは、
核の本物を見抜けなかった敗北であり、
時代の欲望を読み取れなかった敗北であり、
自分の影に負けた敗北であり、
自分の理想を押し上げられなかった敗北でもある。
虚像を偽物と呼ぶのは簡単だ。
だが、その瞬間、虚像に負けたのは自分自身であるという事実が、静かに、しかし確かに、姿を現す。
そして私は思う。
虚像を認められるまで、自らを高める余地があるのだと。
虚像を敵視するのではなく、
虚像の中にある“本物の核”を見抜き、
自分の成長の糧にできる人間でありたいと。
虚像を超えるのは、虚像を否定した者ではない。
虚像を理解し、吸収し、乗り越えた者だけだ。