和食は、日本の文化である。
だが同時に、生活を支える“インフラ”でもあった。

団塊世代の食卓には、そのインフラが確かに息づいていた。

家族がいて、台所に灯りがともり、
味噌汁の湯気が、毎日のように立ちのぼる。
和食は、選ぶものではなく、ただ“そこに在る”ものだった。

しかし、私たち団塊ジュニアは違う。
受験戦争の熱気をくぐり抜け、バブル崩壊の風に吹かれ、就職氷河期の冷たい扉を叩き続けた世代だ。

家庭というインフラは、気づけば遠ざかっていた。ひとり分の煮物は重く、焼き魚は手間がかかる。味噌汁は作るより買う方が早い。気づけば、油の匂いが日常になっていた。

揚げ物、肉、中華、濃い味付け。
手軽で、安くて、どこでも手に入る。
だが、身体には静かに負荷を積み上げる。

そこへ、長年の労働ストレスが重なる。
不安定な雇用、長い残業、途切れない緊張。
ストレスは食生活を乱し、乱れた食生活はストレスを増幅する。まるで、悪夢のようなコンビネーションだ。

そして、50代。

若い頃の無理が、静かに姿を現し始める年代だ。
血圧、血糖、体重、肝機能。どれも、油物中心の食生活と相性が悪い。

団塊世代には、家庭料理という緩衝材があった。
私には、それがない。同じ日本人でも、食卓の構造が違えば、身体に現れる結果も違ってくる。

油の誘惑は、わかりやすい。
疲れた身体には、あの“油ギッシュな一撃”が甘く響く。だが、魅力はいつも代償とセットだ。

若い頃は、油を食べても翌日には帳尻が合った。
だが、50代の身体は違う。代謝は静かに落ち、回復は遅れ、油ギッシュな一撃は、いつの間にか“蓄積”へと変わっていく。

油は悪ではない。

ただ、過度に頼れば病む。
その“当たり前”が、50代になると急に重みを持ち始める。

近年、家族葬が増えた。
棺を見送る機会は、驚くほど少なくなった。
葬儀とは、ただ悲しむための場ではない。
生き残った者が、自分の立ち位置を確かめる儀式でもある。

その機会が減った時代に生きる私たちは、自分の年齢を、正しく感じ取る場を失っている。

50代になっても、どこかでまだ30代のつもりでいる瞬間がある。

棺を見ないまま歳を重ねるということは、
自分の時間の重さを、どこかで取りこぼしながら生きるということでもある。

和食というインフラを失い、
油ギッシュな日常に寄りかかり、
死の現実からも距離を置いたまま、
50代を迎えた。

静かに、しかし確実に、
身体は現在地を知らせてくる。

その声に耳を澄ませるかどうかは、
もう、自分自身の選択だろう。