年金は、気づけばすっかり枯れていた。

私たち団塊ジュニアが社会に出た頃は、60歳になれば受け取れる——

そんな空気が、どこか当然のように漂っていたものだ。

だが、時代は静かに形を変えた。

支給開始は65歳へと遠ざかり、その先の話まで聞こえてくる。

まるで、近づくほど逃げていく“逃げ水”のように。

金融商品には「絶対大丈夫」なんて言葉は使えない。

未来を保証できないからだ。

市場も企業も、いつだって揺らぐ。

だから断言は許されない。

それなのに、年金だけは「大丈夫」と言われる。

未来を読み切れない制度のはずなのに、そこだけは妙に自信たっぷりだ。

この不思議な非対称が、胸の奥にざらりと残る。

原発もそうだった。

「大丈夫だ」と繰り返されていた。

だが、あの爆発を見た私たちは、“言葉の安全”を簡単には信じられなくなった。

年金の「大丈夫」も、同じ響きを帯びて聞こえてしまう。

このまま進めば、就職氷河期と同じ痛みを、年金でも味わうのではないか。

そんな予感が、どこかで静かにうずく。

あの頃もそうだった。

「心配はいらない」と言われながら、実際には門が閉じられ、責任だけがこちらに押しつけられた。

だからもう、口先だけの安心では動かない。

制度がどう変わるかより、自分の生活をどう守るかのほうが大事だ。

財布の紐は、自然と固くなるだろう。

団塊ジュニアは人口が多い。

この世代が一斉に慎重になれば、社会の空気は、静かに、確実に変わる。

年金が枯れたと感じるのは、制度の問題だけじゃない。

信じるという大切な感覚を、政府が自ら手放してしまったからだ。

年金不安の本質は、数字ではない。

信頼の欠落だ。

そして、この姿を見ている下の世代が、何を思い、どんな未来を描くのか——

私たちは、あえて問いたい。