映画『ランボー』の主人公、ジョン・ランボーは、グリーンベレーの兵士だった。

軍の中でも選ばれた者だけが辿り着ける場所で、
何百万ドルの兵器を扱い、ヘリコプターを操縦し、極限の状況で生き延びる訓練を受けたエリートだ。

しかし、戦争が終わり、故郷へ戻ったとき、
彼を待っていたのは“英雄としての歓迎”ではなかった。


駐車場係の仕事すらない。
社会は彼を必要としていない。
むしろ、厄介者として扱われる。

戦場では価値があった能力が、
日常の社会では何ひとつ役に立たない。
その落差が、彼を深い孤独へと追い込んでいく。

ランボーは、その痛みをトラウトマン大佐にぶつけた。
「俺は戦場では役に立ったのに、ここでは何者でもない」と。


しかし、大佐にもどうすることもできない。

社会を変える力も、ランボーの未来を保証する力もない。

ただ、彼の語りを黙って受け止めることしかできなかった。

それでも、ランボーは少し救われたのだと思う。
誰かが聞いてくれるというだけで、
人は、ほんのわずかに立ち直る力を取り戻すことがある。

この構造は、どこか就職氷河期世代の姿と重なる。

氷河期世代もまた、社会に出ようとした瞬間に門が閉ざされていた。

どれだけ勉強しても、どれだけ資格を取っても、
「駐車場係の仕事すらない」という感覚を味わった人は多い。

努力が報われるという物語が、突然機能しなくなった時代だった。

社会は彼らを“厄介者”とまでは言わない。
だが、扱いに困る存在として距離を置いたのは事実だ。

能力と扱いの落差は、静かに心を削っていく。

ランボーが「戦争が終わっても、戦いは終わらない」と語ったように、氷河期世代もまた、就活が終わっても戦いは終わらなかった。

非正規、派遣、転職、独立──

どんな形であれ、生き延びるための戦いが続いた。

それでも、彼らは生き延びた。

社会が評価しなくても、
生き延びたという事実そのものが、
誰にも奪えない誇りだと思う。

ランボーは“帰還兵”の象徴だ。

氷河期世代は“帰還できなかった若者”の象徴かもしれない。

どちらも、時代の犠牲者であり、生存者だ。

そして今、静かに自分の物語を語り直す時期に来ている。

居場所がなかったところから始まる物語を、
これからどう紡いでいくのか。

その問いは、ランボーの物語と同じように、
私たち自身の胸の中にも残り続けている。