若い頃は、前に出ることが正しいと思っていた。誰よりも先に動き、誰よりも早く手を挙げることが、未来を切り開く唯一の方法だと信じていた。

 迷う前に行動する。

 その姿勢が評価され、必要とされ、自分の存在価値そのもののように感じていた。

 けれど、五十代を過ぎたあたりから、同じように前に出ても、どこか空気が合わない瞬間が増えていった。

 率先して動くことが、時に“浮いた行動”として映ることがあるのだと、静かに気づかされる場面が増えた。

 世代が変わり、場の中心にいる人たちの年齢も変わっていく。

 空気の流れが変わると、同じ行動でも意味が変わる。

 それは、誰のせいでもなく、ただ時間が流れたというだけのことなのに、胸の奥が少しざわつく。

 前に出るのではなく、一歩引いて間合いを取る。頼まれるまで待つ。

 その“待つ”という行為が、若い頃の自分には想像もつかなかったほど難しい。

 何もしないわけではない。ただ、相手の成長を信じ、場の流れを見守り、必要なときだけ静かに手を添える。

 それが、年齢を重ねた人の役割なのだと、頭では理解している。

 それでも、心は簡単には切り替わらない。

 長い年月をかけて身につけた“率先する癖”が、ふと顔を出す。

 動きたいのに動けない。動かない方がいいと分かっているのに、胸の奥が落ち着かない。

 その居心地の悪さは、決して悪いものではない。むしろ、これまで真剣に働き、誰かの役に立とうとしてきた証のように思える。

 一歩引くというのは、退くことではなく、支える場所を変えるということだ。

 前に出ないことで、誰かが前に出られるようになる。

 その姿を見守ることが、静かな喜びに変わる日が、きっと来る。

 三月の光は、冬と春のあいだで揺れている。

 その揺れは、今の自分の心にどこか似ている。

 前に出る季節は終わり、一歩引いて見守る季節が始まる。

 その変化を受け入れるには、少し時間がかかるかもしれない。

 けれど、季節が移ろうように、人の役割も静かに変わっていく。

 その変化を、焦らず、責めず、ただそっと受け止めていけばいい。

 桜の花はまだ蕾だが、花が開くのを見届けたら、そっと帰ろう。