役割を終えたものは、派手に去る必要はない。
静かに立ち上がり、そっと背を向けるだけで、
次の季節の気配は、もう足元に滲み始めている。
かつて、引退には明確な“結界”があった。
55歳、あるいは60歳。
会社が線を引き、社会がその線を認め、人はその線を境に、仕事という長い旅路を終えた。
その区切りは、時に残酷でもあったが、
同時に“気持ちの切り替え”を与えてくれる装置でもあった。
しかし今は、その結界が曖昧になっている。
働こうと思えば働けるし、辞めようと思えば辞められる。
自由は増えたが、自由はいつも判断を伴う。
辞め時を自分で決めるというのは、思っている以上に難しい。
株は買うより売る方が難しいと言われる。
手仕舞いの判断には、自分なりの基準が不可欠だからだ。
どこで利益を確定し、どこで手を引くのか。
その基準が曖昧なままでは、人はいつまでも市場に居続けてしまう。
人生の引退も、どこかそれに似ている。
働き続けることはできる。
しかし、どこかで“美しく手を引く”という選択肢もある。
その判断を他人に委ねられない時代だからこそ、自分の中に一本の基準を持つことが必要なのだろう。
役割を終えた者は、ただ静かに退く。
マッカーサーは言った。
老兵は死なず、ただ消え去るのみ。
その言葉を口にできる準備が、自分の中にどれほど整っているだろうか。
去った後には、きっと別の空気が広がる。
その空気を恐れずに迎えられるかどうかが、引退という名の手仕舞いの、美しさを決めるのかもしれない。